地震のあと09 久々の現場しごと
テーマ:しごと
2011/03/30 06:23
震災当日に施工中だった鴻巣のAさんのお宅。
新築されたのが2007年の春でした。
家内を亡くしてまだ半年ほどの頃の事で、追加のお仕事を依頼されて訪ねた今回、Aさんのお母様に当時小学生だった娘のことを心配していただき、恐縮してしまいました。
当時も一部の厄介な仕事だけを任せていただき、あとは資材を提供してご主人に工事をしてもらったり、住宅メーカーから支給して貰った材でご主人と共同で木製フェンスを製作したり…
手作り感のある楽しい庭がさらに成長してわたしを待っていてくれました。
このウッドデッキは住宅メーカーが組み立てた際、ご主人が塗装を行いました。材はレッドシーダーです。
となりのレンガ敷きも、わたしの仕事をじっと見て覚えたご主人が、後から製作されたものです。
でも時の経過で、当時力を入れられなかった部分も作り込みたくなったのと、やはり雑草対策もあって、今回のご依頼となりました。
震災の後、余震も続いていたし停電や燃料の問題もありましたが、予定していた車庫と犬走りのコンクリートだけはいつまでも型枠のままにしておけず、通勤で残り少ないガソリンのほとんどを使い切り、計画停電の合間にプラントに調整してもらいながら、何とかコンクリートの打設だけは終えました。
次はガソリンが普通に手に入るようになってから来ます!
…とは言ったものの、いつまでも仕上げに戻れないのは忍びなく、いよいよ背中にリュック、両手にインパクトドライバーと丸ノコと脚立を担いで電車とバスで行くしかないか…
本気でそう思い、Aさんにもそうお伝えした時になってようやく、ガソリンの供給が安定してくれました。
本当は1日で仕上げてしまいたかったところですが、どうしても終わらず、2日がかりでようやく仕事を終えました。
道路境界部のフェンスもご主人がとてもこだわられたところ。
枕木を立てて並べたいのだけど、どう思いますか?
既存の中古枕木やその紛い物を使うのは反対でしたのでその理由を説明したら、さすがに良くご理解くださり、二人で手分けして予算に見合う範囲の安全な枕木探しに奔走しました。
じつは現在、ウリンに代わる地球環境への負荷が少なくて安全かつ耐久性のあるウッドデッキ材を模索中で、いくつかの業者に声を掛け、震災に前後して各方面を訪ねたり、サンプルを届けてもらったりしています。
その報告はこれからまたじっくり行っていきたいと思ってますが、その中の1社が置いていった国産杉の枕木が有りました。
枕木サイズのものと角材、板材とがあり、防腐剤を加圧注入してあります。その詳細はいずれ他の製品と比較しながら紹介していきたいと思いますが、ここではそのサンプルをAさんが見てすぐに気に入り、価格も比較的安価であったため、即決となりました。
運賃を安く済ませるつもりでAさん自ら前橋まで取りに行く予定でしたが日程が合わず、やむなく私が走ったのが3月11日。震災の当日でした。おそらく、これが半日遅れていたら竣工はさらに遅れていたことでしょう。
内緒ですが、若干過積載でした。
予算の関係で7センチ厚のものと10センチ厚のものを組み合わせて使ったのですが、地中部は直接土に触れる部分を減らすよう工夫しつつ、後で撤去交換が可能なように工夫も加えてあります。
震災を前後しての施工となった現場で、とても印象深い仕事となりました。
季節も冬から春への変わり目を縫うようにしての仕事で、お向かいの畑も竣工間際には春の装いに変わっていて、
最後の日にはこぼれ種のノースポールが花を咲かせていました。
よろしければ、ホームページもご覧下さい。
http://www.yui-garden.com/
新築されたのが2007年の春でした。
家内を亡くしてまだ半年ほどの頃の事で、追加のお仕事を依頼されて訪ねた今回、Aさんのお母様に当時小学生だった娘のことを心配していただき、恐縮してしまいました。
当時も一部の厄介な仕事だけを任せていただき、あとは資材を提供してご主人に工事をしてもらったり、住宅メーカーから支給して貰った材でご主人と共同で木製フェンスを製作したり…
手作り感のある楽しい庭がさらに成長してわたしを待っていてくれました。
このウッドデッキは住宅メーカーが組み立てた際、ご主人が塗装を行いました。材はレッドシーダーです。
となりのレンガ敷きも、わたしの仕事をじっと見て覚えたご主人が、後から製作されたものです。
でも時の経過で、当時力を入れられなかった部分も作り込みたくなったのと、やはり雑草対策もあって、今回のご依頼となりました。
震災の後、余震も続いていたし停電や燃料の問題もありましたが、予定していた車庫と犬走りのコンクリートだけはいつまでも型枠のままにしておけず、通勤で残り少ないガソリンのほとんどを使い切り、計画停電の合間にプラントに調整してもらいながら、何とかコンクリートの打設だけは終えました。
次はガソリンが普通に手に入るようになってから来ます!
…とは言ったものの、いつまでも仕上げに戻れないのは忍びなく、いよいよ背中にリュック、両手にインパクトドライバーと丸ノコと脚立を担いで電車とバスで行くしかないか…
本気でそう思い、Aさんにもそうお伝えした時になってようやく、ガソリンの供給が安定してくれました。
本当は1日で仕上げてしまいたかったところですが、どうしても終わらず、2日がかりでようやく仕事を終えました。
道路境界部のフェンスもご主人がとてもこだわられたところ。
枕木を立てて並べたいのだけど、どう思いますか?
既存の中古枕木やその紛い物を使うのは反対でしたのでその理由を説明したら、さすがに良くご理解くださり、二人で手分けして予算に見合う範囲の安全な枕木探しに奔走しました。
じつは現在、ウリンに代わる地球環境への負荷が少なくて安全かつ耐久性のあるウッドデッキ材を模索中で、いくつかの業者に声を掛け、震災に前後して各方面を訪ねたり、サンプルを届けてもらったりしています。
その報告はこれからまたじっくり行っていきたいと思ってますが、その中の1社が置いていった国産杉の枕木が有りました。
枕木サイズのものと角材、板材とがあり、防腐剤を加圧注入してあります。その詳細はいずれ他の製品と比較しながら紹介していきたいと思いますが、ここではそのサンプルをAさんが見てすぐに気に入り、価格も比較的安価であったため、即決となりました。
運賃を安く済ませるつもりでAさん自ら前橋まで取りに行く予定でしたが日程が合わず、やむなく私が走ったのが3月11日。震災の当日でした。おそらく、これが半日遅れていたら竣工はさらに遅れていたことでしょう。
内緒ですが、若干過積載でした。
予算の関係で7センチ厚のものと10センチ厚のものを組み合わせて使ったのですが、地中部は直接土に触れる部分を減らすよう工夫しつつ、後で撤去交換が可能なように工夫も加えてあります。
震災を前後しての施工となった現場で、とても印象深い仕事となりました。
季節も冬から春への変わり目を縫うようにしての仕事で、お向かいの畑も竣工間際には春の装いに変わっていて、
最後の日にはこぼれ種のノースポールが花を咲かせていました。
よろしければ、ホームページもご覧下さい。
http://www.yui-garden.com/
地震のあと08 さらに歩く
テーマ:思い
2011/03/27 06:03
mixiでお互いの近況を確認し合っているサンフランシスコの友人が、昨日つぶやきの中で、
NHKニュースをつけたら高校野球だった。今日の日本はどうだったんでしょうか?
と…。
震災発生から早くも2週間。
娘なんぞは、え? まだ2週間しかたってないの? もっと長く感じる、と驚いていました。
確かにこの2週間はとても濃密でしたから、その気持ちも分かる一方、わたしにはとても短く感じます。
だってまだ、安否確認が出来ていない方たちが1万6千人(今朝の新聞で)も居るのです。
もう2週間もたってしまったんだ。それだというのに…
一方で仮設住宅の建設が始まっているというのに、まだまだ食料や水が充分確保出来ないでいる被災者の方もいるのです。
…被災地に流れる時間に大きなズレが生まれ始めている。
いま被災地で起こっていること、或いは原発現場の現状を知りたくてラジオをつけると、たしかに友人の言うように、選抜高校野球…
いま、それどころじゃないだろう、とは決して言わないけれど、せめてNHKくらいは常時リアルタイムで情報を流し続けて欲しいと思いました。
被災地を取り巻く状況全体にも、目に見えて温度差が生まれ始めています。
こちらではガソリン不足は解消し、計画停電も頻度がずいぶんと少なくなったものの、放射性物質に汚染された野菜の問題や水道水の問題もあって、確実にスーパーからミネラルウォーター始めいくつかの品物の姿が消えているし、原発では作業員が被爆したというし… そう、余震もまだまだ続いています。
震災はまだまだ規模を拡大しながら、今も進行しているというのが実感です。
まだ緊急事態は続いている。
余震とか、放射能漏れとか、そうした事々がすべて被災地からのメッセージなのではないかとさえ、思えます。
まだ忘れないでくれ、この災害は東北と東関東だけのものではないんだよ、という…
ラジオで情報を耳にし、テレビの画像で被災地の様子を知り続けることは、被災地と時間を共有するということ。
被災地の様子を常に心に掛けるということは、身体はここらあっても気持ちの一部を被災地に置くということ。
震災によって発生した物資の不足、停電など生活上の様々な不便を甘んじて受け入れるということは、被災地の方たちとそれを分かち合うということ。
そう思えてならないのですが、いま生じつつある温度差に焦りを感じています。
だからね、今日はこれから出掛けるに当たって、いつもはクルマですいと行けてしまう場所だけれど、電車と徒歩で目的地を目指します。
別にガソリンを大切に使うということだけでなく、この身体をいつまでも緊急事態の緊張感の中に置いておきたいから…
うん。
そうでないと簡単に緊張感を解いてしまう程度の、わたしは心の弱い人間ですので。
NHKニュースをつけたら高校野球だった。今日の日本はどうだったんでしょうか?
と…。
震災発生から早くも2週間。
娘なんぞは、え? まだ2週間しかたってないの? もっと長く感じる、と驚いていました。
確かにこの2週間はとても濃密でしたから、その気持ちも分かる一方、わたしにはとても短く感じます。
だってまだ、安否確認が出来ていない方たちが1万6千人(今朝の新聞で)も居るのです。
もう2週間もたってしまったんだ。それだというのに…
一方で仮設住宅の建設が始まっているというのに、まだまだ食料や水が充分確保出来ないでいる被災者の方もいるのです。
…被災地に流れる時間に大きなズレが生まれ始めている。
いま被災地で起こっていること、或いは原発現場の現状を知りたくてラジオをつけると、たしかに友人の言うように、選抜高校野球…
いま、それどころじゃないだろう、とは決して言わないけれど、せめてNHKくらいは常時リアルタイムで情報を流し続けて欲しいと思いました。
被災地を取り巻く状況全体にも、目に見えて温度差が生まれ始めています。
こちらではガソリン不足は解消し、計画停電も頻度がずいぶんと少なくなったものの、放射性物質に汚染された野菜の問題や水道水の問題もあって、確実にスーパーからミネラルウォーター始めいくつかの品物の姿が消えているし、原発では作業員が被爆したというし… そう、余震もまだまだ続いています。
震災はまだまだ規模を拡大しながら、今も進行しているというのが実感です。
まだ緊急事態は続いている。
余震とか、放射能漏れとか、そうした事々がすべて被災地からのメッセージなのではないかとさえ、思えます。
まだ忘れないでくれ、この災害は東北と東関東だけのものではないんだよ、という…
ラジオで情報を耳にし、テレビの画像で被災地の様子を知り続けることは、被災地と時間を共有するということ。
被災地の様子を常に心に掛けるということは、身体はここらあっても気持ちの一部を被災地に置くということ。
震災によって発生した物資の不足、停電など生活上の様々な不便を甘んじて受け入れるということは、被災地の方たちとそれを分かち合うということ。
そう思えてならないのですが、いま生じつつある温度差に焦りを感じています。
だからね、今日はこれから出掛けるに当たって、いつもはクルマですいと行けてしまう場所だけれど、電車と徒歩で目的地を目指します。
別にガソリンを大切に使うということだけでなく、この身体をいつまでも緊急事態の緊張感の中に置いておきたいから…
うん。
そうでないと簡単に緊張感を解いてしまう程度の、わたしは心の弱い人間ですので。
地震のあと07 地平線
テーマ:詩
2011/03/23 06:13
昨日、ここ秩父ではようやくガソリンスタンドの行列が無くなりました。
あまりに突然の事だったので(前日まではすごい列でしたから)、一瞬頭の中が真っ白になるくらいの驚きでした。
たまたま、どうしようもない用事ができてクルマを出し、ガソリンの残量を見て冷や冷やしながらの運転中で、さすがに入れて貰うことにしました。
しかも制限無し。
「どんどん入ってくるから、大丈夫。満タンにしてあげるよ」
スタンドのおばちゃんにそう言ってもらいました。
…被災地にも同じようにどんどん入っているのだろうか? 入ってくれていると良いのだけれど!
祈るような気持ちで長く掛かった給油の間を過ごしました。
用事を済ませて再び戻る間、すっかり習慣になってしまった信号待ちごとのアイドリングストップを知らずしていました。…この習慣はずっと続けましょう。
そして、歩けるところは歩くという姿勢も…
国道沿いのスタンドにはそれでもまだ長蛇の列。
まだまだ平常通りではないようです。
平常通りに出来るはずなんてないのかもしれません。
さて前々回のブログの中で、いっぱい歩く話から思いだしたインドで書いた詩です。
思えばわたしは人生の大事な局面で、いつも歩いていた気がします。
地 平 線
- ゴア発ボンベイ行き船中にて-
最初の地平線は
今ここを歩き始めた自分が
そう遠くない いつか
あの地平線に見える村に辿り着けるだろうという確信だった
村と自分を隔てるデカンの荒野は乾き切って
おそらくは埃にまみれ飢え渇き
強烈な日射しを呪うことになろうけれど
あの砂地に足を取られ低地の辺りで道を失い
牧童に水を乞い農夫に道を尋ね
そうしていつか辿り着いてしまうという確信
自分が人間であることを知り
つまり人間がそうやって旅をしてきたことを学んだその時間
僕は固いチャパティを冷めかけたチャイで呑み下しながら
汽車の窓の側に居た
人は歴史ごとに移ろう時代の上を生きるのではなく
季節ごとに移ろうこの土の上に生きるものだと
昼下がりの木陰に憩う老人は無言で語る
たとい百年の先に生まれようが
百年前に生きようが
この季節のこの昼下がりをこうやって
彼が過ごすことに変わりはないだろう
土埃を浴びながら歩む牛たちも
丘を下る山羊の群れも
人と同じ時間を営むに違いない
今この瞬間にあの城塞の主が変わり
その為に多くの兵士がこの野に死んだとしても
或いはあの丘陵の先で核実験が行われたにしても
やはりそんなことと関わりなく一杯のチャイに午後を過ごす
老人がここに居るだろう
二度めの地平線はその老人の肩先を横切っていた
そしてそれから出会う地平線は
いつも自分が極めていった地平線だった
こんなに遠い処へ行けるものか行ける筈がないと
地図を拡げ時刻表を睨み
そして時にこの目で確かめながら
けれど結局辿り着いてしまった地平線だった
海を越え汽車を乗り継ぎバスに揺られ
さらに歩きひたすら歩き
気が付けば怖くなる程の距離を越えて
知らず辿り着いてしまっている地平線だった
歩むたびに地平線が移り
行き着けば始めの土地が地平線になってしまっているという
繰り返しの中で
僕はようやく自分の中の地平線が見えてくる
阪神淡路の震災の後、本当に多くの人たちが力強く被災地を歩き続けました。
その歩みの数だけ復興が早まったといっても過言ではないと、わたしはどこかで信じています。
今回の震災の惨状は、地震のエネルギーだけでなく被害の大きさとその種類においても阪神淡路をはるかに上回るものでしょう。
個人単位の支援活動が現場を混乱させるだけという、それほどの交通の混乱、情報の混乱…
それほど完膚無きまでに人々の暮らしは破壊されました。
でも…
それでも人は歩いています。
被災地の瓦礫の中を、避難所の中を、避難所と避難所をつなぐ遠い道を…
たとえその歩みは遅くても、その一歩一歩が確実に物事を前に進めていくのだと思うのです。
人の歩みには、それだけのエネルギーが秘められているとわたしは信じています。
あまりに突然の事だったので(前日まではすごい列でしたから)、一瞬頭の中が真っ白になるくらいの驚きでした。
たまたま、どうしようもない用事ができてクルマを出し、ガソリンの残量を見て冷や冷やしながらの運転中で、さすがに入れて貰うことにしました。
しかも制限無し。
「どんどん入ってくるから、大丈夫。満タンにしてあげるよ」
スタンドのおばちゃんにそう言ってもらいました。
…被災地にも同じようにどんどん入っているのだろうか? 入ってくれていると良いのだけれど!
祈るような気持ちで長く掛かった給油の間を過ごしました。
用事を済ませて再び戻る間、すっかり習慣になってしまった信号待ちごとのアイドリングストップを知らずしていました。…この習慣はずっと続けましょう。
そして、歩けるところは歩くという姿勢も…
国道沿いのスタンドにはそれでもまだ長蛇の列。
まだまだ平常通りではないようです。
平常通りに出来るはずなんてないのかもしれません。
さて前々回のブログの中で、いっぱい歩く話から思いだしたインドで書いた詩です。
思えばわたしは人生の大事な局面で、いつも歩いていた気がします。
地 平 線
- ゴア発ボンベイ行き船中にて-
最初の地平線は
今ここを歩き始めた自分が
そう遠くない いつか
あの地平線に見える村に辿り着けるだろうという確信だった
村と自分を隔てるデカンの荒野は乾き切って
おそらくは埃にまみれ飢え渇き
強烈な日射しを呪うことになろうけれど
あの砂地に足を取られ低地の辺りで道を失い
牧童に水を乞い農夫に道を尋ね
そうしていつか辿り着いてしまうという確信
自分が人間であることを知り
つまり人間がそうやって旅をしてきたことを学んだその時間
僕は固いチャパティを冷めかけたチャイで呑み下しながら
汽車の窓の側に居た
人は歴史ごとに移ろう時代の上を生きるのではなく
季節ごとに移ろうこの土の上に生きるものだと
昼下がりの木陰に憩う老人は無言で語る
たとい百年の先に生まれようが
百年前に生きようが
この季節のこの昼下がりをこうやって
彼が過ごすことに変わりはないだろう
土埃を浴びながら歩む牛たちも
丘を下る山羊の群れも
人と同じ時間を営むに違いない
今この瞬間にあの城塞の主が変わり
その為に多くの兵士がこの野に死んだとしても
或いはあの丘陵の先で核実験が行われたにしても
やはりそんなことと関わりなく一杯のチャイに午後を過ごす
老人がここに居るだろう
二度めの地平線はその老人の肩先を横切っていた
そしてそれから出会う地平線は
いつも自分が極めていった地平線だった
こんなに遠い処へ行けるものか行ける筈がないと
地図を拡げ時刻表を睨み
そして時にこの目で確かめながら
けれど結局辿り着いてしまった地平線だった
海を越え汽車を乗り継ぎバスに揺られ
さらに歩きひたすら歩き
気が付けば怖くなる程の距離を越えて
知らず辿り着いてしまっている地平線だった
歩むたびに地平線が移り
行き着けば始めの土地が地平線になってしまっているという
繰り返しの中で
僕はようやく自分の中の地平線が見えてくる
阪神淡路の震災の後、本当に多くの人たちが力強く被災地を歩き続けました。
その歩みの数だけ復興が早まったといっても過言ではないと、わたしはどこかで信じています。
今回の震災の惨状は、地震のエネルギーだけでなく被害の大きさとその種類においても阪神淡路をはるかに上回るものでしょう。
個人単位の支援活動が現場を混乱させるだけという、それほどの交通の混乱、情報の混乱…
それほど完膚無きまでに人々の暮らしは破壊されました。
でも…
それでも人は歩いています。
被災地の瓦礫の中を、避難所の中を、避難所と避難所をつなぐ遠い道を…
たとえその歩みは遅くても、その一歩一歩が確実に物事を前に進めていくのだと思うのです。
人の歩みには、それだけのエネルギーが秘められているとわたしは信じています。