双葉町に入る 2015.10.25. 市街地~双葉海水浴場~福島第一原発
テーマ:東日本大震災復興
2016/01/14 18:20
昨年10月25日、かねてからお願いしていた双葉町への立ち入りの同行が実現した。
小野田明君が修士論文として製作している記録映画の撮影のため町に入るので、「一緒にどうか」というお誘いだったが、アンソニーとフィリップも合流してくれて2台で出かけることになった。
わたしは前日まで山元町に居て早朝から6号線を南下。いったん双葉町の町中を通り過ぎ、常磐富岡ICのすぐ近くにあるの広い駐車場に集合した。
ここですでに空間線量は毎時1.1μSvを越えている。
車でほどない富岡町の高津戸スクリーニング場で受付を行ってもらう。
立入の申請はあらかじめ予約をしていた住民に限られ、一度の立入に使用する車両は申請所帯1軒あたり原則1台。ただし同乗者は町民でなくても良く、事前に名簿を提出できないときはその場の記帳で済む。求められるのは氏名と電話番号だけ。ずいぶん緩和されたと驚くが、思えば震災から5年もたってそれでも自分の自宅に戻るのに申請が必要ということ自体、異常なことなのだ。
一人一人防護服と線量計を渡される。
線量計は滞在時間中に被ばくした総線量をチェックするためのもの。
防護服は必ず着用が義務づけられるものでは無いようだ。とても簡易な使い捨てのもの。特に夏などは暑くて着てられないので、アンソニーもフィリップも身につけないという。ただ、出場の際スクリーニングの手間が省けるので靴だけはビニールで覆っておいた方が良いと小野田君に勧められた。
国道6号線を富岡、大熊と抜けて双葉に入る。通行可能な6号線でも第一原発に最も近い交差点あたりでは今も毎時10μSvを優に超えている。
ゲートで許可証を提示して通過させてもらう。ガードマンさんはマスクだけの軽微な恰好だ。
町の中心地に入ってほどない小野田君の自宅を訪問する。持ち出したい品があるというので探すのを手伝うが、結局見つからなかった。写真は2階の窓から撮ったものだが、整然として人の姿のない町並みの中、倒壊した建物が点在する。塀が壊れたり屋根瓦が落ちたりと、その姿は5年前と変わらないまま、まさに恣意的に保存されたかのよう。
家の中もまた同様で、地震で投げ出されたのか必要な品を持ち出すたびに引き出されたのか、床に様々な生活の痕跡が山積みされている。
探すのに疲れた小野田君がふとピアノに向かい、それに二人がカメラを向ける。かつてアンソニーが撮った「ピアニスト」という写真も、このように記録されたのかとふと思う。
市街地の景色は改めて、もう少し日が傾いてから戻って来て撮りたいと小野田君が言う。一時帰宅が許されるのは午前9時から午後4時までのうちの5時間。今回は10時半に入ったので午後3時過ぎには町を離れて中継地点まで戻らなくてはならない。記録映画としては朝や夕暮れ時の風景も残したいが、それが出来ないと嘆く。
海に行きましょうと言うので再度車に乗り込む。市街地から海に向かうためには6号線を横断しなくてはならないが、ここで再度許可証のチェックが2度繰り返される。
退場、そして入場。
海へと向かう途中で防護服に身を包んだ集団と出会った。
「あ、」
と言って小野田君は車を停め、撮影の準備に入る。アンソニーとフィリップも無言で後に続く。
「家屋調査だと思います。中間貯蔵施設の用地買収のための…」
ここは福島第一原発から2キロちょっとの場所。このあたり一帯に放射性廃棄物を保管する中間貯蔵施設が建設される計画になっているとのことだ。一時的な保管で済むはずのないことはみんな分かっているので住民の多くは建設に反対している。が、やむにやまれぬ思いで買収に応じる住民も出て来はじめている。
どのみち、ここには帰って来れないのだから…
カメラを向けると防護服の人たちは一斉にこちらを向いて警戒する。あからさまに不快な表情を見せる人もいた。
「町の役場の人かな?」
「いや、民間の委託業者ですね」
カメラを向けながら小野田君が答えてくれた。なんどか遭遇した光景なのだろう。
そのうち一人の女性が小野田君に歩み寄った。やや困惑した口調で、
「撮ってどうするんですか? 困るんですけど」
「いえ。お顔やお宅は判らないようにします」
女性はこの家の方で、周囲の家が建設に反対して買収に応じていない中、このように交渉を進めているのが漏れるとうまくないという事のようだ。
小野田君がしかし映画の趣旨を説明すると、女性の表情はやがて柔らかくなった。役場に勤めていた小野田君のお母さんを知っおられたこともあり、
「そうですか。そういうことならしっかりとこの景色を記録しておいてください。いつか無くなってしまう景色ですから…」
この場所の空間線量0.36μSv毎時。
その道をさらに下ると海に至る。
双葉海水浴場。
震災の傷跡がそこかしこに深く残っている。
震災直後は至る所にこのような景色があったが、今ではもう見ることが少なくなった。
福島の立入制限地域では、しかしどこでも見ることが出来る。
この傷跡が修復されることはこの先、有るのだろうかと思う。
ここで警察の職務質問を受ける。
海に降りて行く様子をどこかで見られていたのだろう。或いはその場所に待機していたのかもしれない。
自宅への一時的帰宅の為に設けられた一時立入の趣旨からすると、このように関係ない場所をうろうろすること自体あまり好ましいことではないのだろう。自分の町の自分の好きな景色を、ただ見るだけなのに…
警察官の姿を認めると、小野田君は求められる前に許可証と免許証を提示しに行った。
「余計なことで時間を無駄にしたくないから」
彼は言う。
彼はこの場所で幼い頃からずっと見てきた双葉の海を撮りたいという。
かつてのマリーンハウスふたば、今は廃屋となった建物に入り、その展望台から海を望む。風が強くてカメラが安定しないというので三脚を押さえる程度のお手伝いをする。
震災の津波による被害を受けたまま、時間が止まってしまったかのような建物の内部だ。
震災直後はやがて麻痺をして、いちいち心に痛みを感じるゆとりを失ってしまったものだが、改めてあのちくちくする痛みがよみがえる。
この場所で楽しい時間を過ごした家族がどれだけ居たことか。
車で少し移動して南下し、そこから再度海に向かう。
福島第一原子力発電所を、もっとも近くから見ることの出来る場所へ。
ここの岸壁はかつてデートスポットで、夜になれば多くの若者が集まったのだということ。
「冬でもけっこう暖かくて」
熱交換して排出された温水が、原発から流れ出ていたせいかもしれない。夜間電力が余っても停めることの出来ない原発は不要となる温水を海に捨てるので、原発の周辺では海水温度が上昇すると聞いたことがある。
ただ、今放出されているのは別の、ずっと冷たい水なのだろう。
富岡で降りた時からずっと感じていたのだが、この秋、原発事故で立ち入りが制限され人が暮らせなくなった区域では、セイタカアワダチソウがとても美しく咲き乱れている。
昨年の秋はこれほどではなかった。
美しいと言っては叱られるかも知れないが、確かにこれだけ広い面積でセイタカアワダチソウが繁茂を許される機会はないのだ。
一面に咲き乱れてしまえば、やはり美しいと感じるしかない。
それにススキの加わった秋の景色。
一面に水田が拡がる双葉の里の景色をアンソニーはこよなく愛したと言っていた。世界で一番美しい場所とさえ言っていた。
それぞれの思いを抱えながら、4人それぞれがそれぞれの景色を切り取り続けていた。
小野田明君が修士論文として製作している記録映画の撮影のため町に入るので、「一緒にどうか」というお誘いだったが、アンソニーとフィリップも合流してくれて2台で出かけることになった。
わたしは前日まで山元町に居て早朝から6号線を南下。いったん双葉町の町中を通り過ぎ、常磐富岡ICのすぐ近くにあるの広い駐車場に集合した。
ここですでに空間線量は毎時1.1μSvを越えている。
車でほどない富岡町の高津戸スクリーニング場で受付を行ってもらう。
立入の申請はあらかじめ予約をしていた住民に限られ、一度の立入に使用する車両は申請所帯1軒あたり原則1台。ただし同乗者は町民でなくても良く、事前に名簿を提出できないときはその場の記帳で済む。求められるのは氏名と電話番号だけ。ずいぶん緩和されたと驚くが、思えば震災から5年もたってそれでも自分の自宅に戻るのに申請が必要ということ自体、異常なことなのだ。
一人一人防護服と線量計を渡される。
線量計は滞在時間中に被ばくした総線量をチェックするためのもの。
防護服は必ず着用が義務づけられるものでは無いようだ。とても簡易な使い捨てのもの。特に夏などは暑くて着てられないので、アンソニーもフィリップも身につけないという。ただ、出場の際スクリーニングの手間が省けるので靴だけはビニールで覆っておいた方が良いと小野田君に勧められた。
国道6号線を富岡、大熊と抜けて双葉に入る。通行可能な6号線でも第一原発に最も近い交差点あたりでは今も毎時10μSvを優に超えている。
ゲートで許可証を提示して通過させてもらう。ガードマンさんはマスクだけの軽微な恰好だ。
町の中心地に入ってほどない小野田君の自宅を訪問する。持ち出したい品があるというので探すのを手伝うが、結局見つからなかった。写真は2階の窓から撮ったものだが、整然として人の姿のない町並みの中、倒壊した建物が点在する。塀が壊れたり屋根瓦が落ちたりと、その姿は5年前と変わらないまま、まさに恣意的に保存されたかのよう。
家の中もまた同様で、地震で投げ出されたのか必要な品を持ち出すたびに引き出されたのか、床に様々な生活の痕跡が山積みされている。
探すのに疲れた小野田君がふとピアノに向かい、それに二人がカメラを向ける。かつてアンソニーが撮った「ピアニスト」という写真も、このように記録されたのかとふと思う。
市街地の景色は改めて、もう少し日が傾いてから戻って来て撮りたいと小野田君が言う。一時帰宅が許されるのは午前9時から午後4時までのうちの5時間。今回は10時半に入ったので午後3時過ぎには町を離れて中継地点まで戻らなくてはならない。記録映画としては朝や夕暮れ時の風景も残したいが、それが出来ないと嘆く。
海に行きましょうと言うので再度車に乗り込む。市街地から海に向かうためには6号線を横断しなくてはならないが、ここで再度許可証のチェックが2度繰り返される。
退場、そして入場。
海へと向かう途中で防護服に身を包んだ集団と出会った。
「あ、」
と言って小野田君は車を停め、撮影の準備に入る。アンソニーとフィリップも無言で後に続く。
「家屋調査だと思います。中間貯蔵施設の用地買収のための…」
ここは福島第一原発から2キロちょっとの場所。このあたり一帯に放射性廃棄物を保管する中間貯蔵施設が建設される計画になっているとのことだ。一時的な保管で済むはずのないことはみんな分かっているので住民の多くは建設に反対している。が、やむにやまれぬ思いで買収に応じる住民も出て来はじめている。
どのみち、ここには帰って来れないのだから…
カメラを向けると防護服の人たちは一斉にこちらを向いて警戒する。あからさまに不快な表情を見せる人もいた。
「町の役場の人かな?」
「いや、民間の委託業者ですね」
カメラを向けながら小野田君が答えてくれた。なんどか遭遇した光景なのだろう。
そのうち一人の女性が小野田君に歩み寄った。やや困惑した口調で、
「撮ってどうするんですか? 困るんですけど」
「いえ。お顔やお宅は判らないようにします」
女性はこの家の方で、周囲の家が建設に反対して買収に応じていない中、このように交渉を進めているのが漏れるとうまくないという事のようだ。
小野田君がしかし映画の趣旨を説明すると、女性の表情はやがて柔らかくなった。役場に勤めていた小野田君のお母さんを知っおられたこともあり、
「そうですか。そういうことならしっかりとこの景色を記録しておいてください。いつか無くなってしまう景色ですから…」
この場所の空間線量0.36μSv毎時。
その道をさらに下ると海に至る。
双葉海水浴場。
震災の傷跡がそこかしこに深く残っている。
震災直後は至る所にこのような景色があったが、今ではもう見ることが少なくなった。
福島の立入制限地域では、しかしどこでも見ることが出来る。
この傷跡が修復されることはこの先、有るのだろうかと思う。
ここで警察の職務質問を受ける。
海に降りて行く様子をどこかで見られていたのだろう。或いはその場所に待機していたのかもしれない。
自宅への一時的帰宅の為に設けられた一時立入の趣旨からすると、このように関係ない場所をうろうろすること自体あまり好ましいことではないのだろう。自分の町の自分の好きな景色を、ただ見るだけなのに…
警察官の姿を認めると、小野田君は求められる前に許可証と免許証を提示しに行った。
「余計なことで時間を無駄にしたくないから」
彼は言う。
彼はこの場所で幼い頃からずっと見てきた双葉の海を撮りたいという。
かつてのマリーンハウスふたば、今は廃屋となった建物に入り、その展望台から海を望む。風が強くてカメラが安定しないというので三脚を押さえる程度のお手伝いをする。
震災の津波による被害を受けたまま、時間が止まってしまったかのような建物の内部だ。
震災直後はやがて麻痺をして、いちいち心に痛みを感じるゆとりを失ってしまったものだが、改めてあのちくちくする痛みがよみがえる。
この場所で楽しい時間を過ごした家族がどれだけ居たことか。
車で少し移動して南下し、そこから再度海に向かう。
福島第一原子力発電所を、もっとも近くから見ることの出来る場所へ。
ここの岸壁はかつてデートスポットで、夜になれば多くの若者が集まったのだということ。
「冬でもけっこう暖かくて」
熱交換して排出された温水が、原発から流れ出ていたせいかもしれない。夜間電力が余っても停めることの出来ない原発は不要となる温水を海に捨てるので、原発の周辺では海水温度が上昇すると聞いたことがある。
ただ、今放出されているのは別の、ずっと冷たい水なのだろう。
富岡で降りた時からずっと感じていたのだが、この秋、原発事故で立ち入りが制限され人が暮らせなくなった区域では、セイタカアワダチソウがとても美しく咲き乱れている。
昨年の秋はこれほどではなかった。
美しいと言っては叱られるかも知れないが、確かにこれだけ広い面積でセイタカアワダチソウが繁茂を許される機会はないのだ。
一面に咲き乱れてしまえば、やはり美しいと感じるしかない。
それにススキの加わった秋の景色。
一面に水田が拡がる双葉の里の景色をアンソニーはこよなく愛したと言っていた。世界で一番美しい場所とさえ言っていた。
それぞれの思いを抱えながら、4人それぞれがそれぞれの景色を切り取り続けていた。