双葉町に入る 2015.10.25. 市街地~双葉海水浴場~福島第一原発
テーマ:東日本大震災復興
2016/01/14 18:20
昨年10月25日、かねてからお願いしていた双葉町への立ち入りの同行が実現した。
小野田明君が修士論文として製作している記録映画の撮影のため町に入るので、「一緒にどうか」というお誘いだったが、アンソニーとフィリップも合流してくれて2台で出かけることになった。
わたしは前日まで山元町に居て早朝から6号線を南下。いったん双葉町の町中を通り過ぎ、常磐富岡ICのすぐ近くにあるの広い駐車場に集合した。
ここですでに空間線量は毎時1.1μSvを越えている。
車でほどない富岡町の高津戸スクリーニング場で受付を行ってもらう。
立入の申請はあらかじめ予約をしていた住民に限られ、一度の立入に使用する車両は申請所帯1軒あたり原則1台。ただし同乗者は町民でなくても良く、事前に名簿を提出できないときはその場の記帳で済む。求められるのは氏名と電話番号だけ。ずいぶん緩和されたと驚くが、思えば震災から5年もたってそれでも自分の自宅に戻るのに申請が必要ということ自体、異常なことなのだ。
一人一人防護服と線量計を渡される。
線量計は滞在時間中に被ばくした総線量をチェックするためのもの。
防護服は必ず着用が義務づけられるものでは無いようだ。とても簡易な使い捨てのもの。特に夏などは暑くて着てられないので、アンソニーもフィリップも身につけないという。ただ、出場の際スクリーニングの手間が省けるので靴だけはビニールで覆っておいた方が良いと小野田君に勧められた。
国道6号線を富岡、大熊と抜けて双葉に入る。通行可能な6号線でも第一原発に最も近い交差点あたりでは今も毎時10μSvを優に超えている。
ゲートで許可証を提示して通過させてもらう。ガードマンさんはマスクだけの軽微な恰好だ。
町の中心地に入ってほどない小野田君の自宅を訪問する。持ち出したい品があるというので探すのを手伝うが、結局見つからなかった。写真は2階の窓から撮ったものだが、整然として人の姿のない町並みの中、倒壊した建物が点在する。塀が壊れたり屋根瓦が落ちたりと、その姿は5年前と変わらないまま、まさに恣意的に保存されたかのよう。
家の中もまた同様で、地震で投げ出されたのか必要な品を持ち出すたびに引き出されたのか、床に様々な生活の痕跡が山積みされている。
探すのに疲れた小野田君がふとピアノに向かい、それに二人がカメラを向ける。かつてアンソニーが撮った「ピアニスト」という写真も、このように記録されたのかとふと思う。
市街地の景色は改めて、もう少し日が傾いてから戻って来て撮りたいと小野田君が言う。一時帰宅が許されるのは午前9時から午後4時までのうちの5時間。今回は10時半に入ったので午後3時過ぎには町を離れて中継地点まで戻らなくてはならない。記録映画としては朝や夕暮れ時の風景も残したいが、それが出来ないと嘆く。
海に行きましょうと言うので再度車に乗り込む。市街地から海に向かうためには6号線を横断しなくてはならないが、ここで再度許可証のチェックが2度繰り返される。
退場、そして入場。
海へと向かう途中で防護服に身を包んだ集団と出会った。
「あ、」
と言って小野田君は車を停め、撮影の準備に入る。アンソニーとフィリップも無言で後に続く。
「家屋調査だと思います。中間貯蔵施設の用地買収のための…」
ここは福島第一原発から2キロちょっとの場所。このあたり一帯に放射性廃棄物を保管する中間貯蔵施設が建設される計画になっているとのことだ。一時的な保管で済むはずのないことはみんな分かっているので住民の多くは建設に反対している。が、やむにやまれぬ思いで買収に応じる住民も出て来はじめている。
どのみち、ここには帰って来れないのだから…
カメラを向けると防護服の人たちは一斉にこちらを向いて警戒する。あからさまに不快な表情を見せる人もいた。
「町の役場の人かな?」
「いや、民間の委託業者ですね」
カメラを向けながら小野田君が答えてくれた。なんどか遭遇した光景なのだろう。
そのうち一人の女性が小野田君に歩み寄った。やや困惑した口調で、
「撮ってどうするんですか? 困るんですけど」
「いえ。お顔やお宅は判らないようにします」
女性はこの家の方で、周囲の家が建設に反対して買収に応じていない中、このように交渉を進めているのが漏れるとうまくないという事のようだ。
小野田君がしかし映画の趣旨を説明すると、女性の表情はやがて柔らかくなった。役場に勤めていた小野田君のお母さんを知っおられたこともあり、
「そうですか。そういうことならしっかりとこの景色を記録しておいてください。いつか無くなってしまう景色ですから…」
この場所の空間線量0.36μSv毎時。
その道をさらに下ると海に至る。
双葉海水浴場。
震災の傷跡がそこかしこに深く残っている。
震災直後は至る所にこのような景色があったが、今ではもう見ることが少なくなった。
福島の立入制限地域では、しかしどこでも見ることが出来る。
この傷跡が修復されることはこの先、有るのだろうかと思う。
ここで警察の職務質問を受ける。
海に降りて行く様子をどこかで見られていたのだろう。或いはその場所に待機していたのかもしれない。
自宅への一時的帰宅の為に設けられた一時立入の趣旨からすると、このように関係ない場所をうろうろすること自体あまり好ましいことではないのだろう。自分の町の自分の好きな景色を、ただ見るだけなのに…
警察官の姿を認めると、小野田君は求められる前に許可証と免許証を提示しに行った。
「余計なことで時間を無駄にしたくないから」
彼は言う。
彼はこの場所で幼い頃からずっと見てきた双葉の海を撮りたいという。
かつてのマリーンハウスふたば、今は廃屋となった建物に入り、その展望台から海を望む。風が強くてカメラが安定しないというので三脚を押さえる程度のお手伝いをする。
震災の津波による被害を受けたまま、時間が止まってしまったかのような建物の内部だ。
震災直後はやがて麻痺をして、いちいち心に痛みを感じるゆとりを失ってしまったものだが、改めてあのちくちくする痛みがよみがえる。
この場所で楽しい時間を過ごした家族がどれだけ居たことか。
車で少し移動して南下し、そこから再度海に向かう。
福島第一原子力発電所を、もっとも近くから見ることの出来る場所へ。
ここの岸壁はかつてデートスポットで、夜になれば多くの若者が集まったのだということ。
「冬でもけっこう暖かくて」
熱交換して排出された温水が、原発から流れ出ていたせいかもしれない。夜間電力が余っても停めることの出来ない原発は不要となる温水を海に捨てるので、原発の周辺では海水温度が上昇すると聞いたことがある。
ただ、今放出されているのは別の、ずっと冷たい水なのだろう。
富岡で降りた時からずっと感じていたのだが、この秋、原発事故で立ち入りが制限され人が暮らせなくなった区域では、セイタカアワダチソウがとても美しく咲き乱れている。
昨年の秋はこれほどではなかった。
美しいと言っては叱られるかも知れないが、確かにこれだけ広い面積でセイタカアワダチソウが繁茂を許される機会はないのだ。
一面に咲き乱れてしまえば、やはり美しいと感じるしかない。
それにススキの加わった秋の景色。
一面に水田が拡がる双葉の里の景色をアンソニーはこよなく愛したと言っていた。世界で一番美しい場所とさえ言っていた。
それぞれの思いを抱えながら、4人それぞれがそれぞれの景色を切り取り続けていた。
小野田明君が修士論文として製作している記録映画の撮影のため町に入るので、「一緒にどうか」というお誘いだったが、アンソニーとフィリップも合流してくれて2台で出かけることになった。
わたしは前日まで山元町に居て早朝から6号線を南下。いったん双葉町の町中を通り過ぎ、常磐富岡ICのすぐ近くにあるの広い駐車場に集合した。
ここですでに空間線量は毎時1.1μSvを越えている。
車でほどない富岡町の高津戸スクリーニング場で受付を行ってもらう。
立入の申請はあらかじめ予約をしていた住民に限られ、一度の立入に使用する車両は申請所帯1軒あたり原則1台。ただし同乗者は町民でなくても良く、事前に名簿を提出できないときはその場の記帳で済む。求められるのは氏名と電話番号だけ。ずいぶん緩和されたと驚くが、思えば震災から5年もたってそれでも自分の自宅に戻るのに申請が必要ということ自体、異常なことなのだ。
一人一人防護服と線量計を渡される。
線量計は滞在時間中に被ばくした総線量をチェックするためのもの。
防護服は必ず着用が義務づけられるものでは無いようだ。とても簡易な使い捨てのもの。特に夏などは暑くて着てられないので、アンソニーもフィリップも身につけないという。ただ、出場の際スクリーニングの手間が省けるので靴だけはビニールで覆っておいた方が良いと小野田君に勧められた。
国道6号線を富岡、大熊と抜けて双葉に入る。通行可能な6号線でも第一原発に最も近い交差点あたりでは今も毎時10μSvを優に超えている。
ゲートで許可証を提示して通過させてもらう。ガードマンさんはマスクだけの軽微な恰好だ。
町の中心地に入ってほどない小野田君の自宅を訪問する。持ち出したい品があるというので探すのを手伝うが、結局見つからなかった。写真は2階の窓から撮ったものだが、整然として人の姿のない町並みの中、倒壊した建物が点在する。塀が壊れたり屋根瓦が落ちたりと、その姿は5年前と変わらないまま、まさに恣意的に保存されたかのよう。
家の中もまた同様で、地震で投げ出されたのか必要な品を持ち出すたびに引き出されたのか、床に様々な生活の痕跡が山積みされている。
探すのに疲れた小野田君がふとピアノに向かい、それに二人がカメラを向ける。かつてアンソニーが撮った「ピアニスト」という写真も、このように記録されたのかとふと思う。
市街地の景色は改めて、もう少し日が傾いてから戻って来て撮りたいと小野田君が言う。一時帰宅が許されるのは午前9時から午後4時までのうちの5時間。今回は10時半に入ったので午後3時過ぎには町を離れて中継地点まで戻らなくてはならない。記録映画としては朝や夕暮れ時の風景も残したいが、それが出来ないと嘆く。
海に行きましょうと言うので再度車に乗り込む。市街地から海に向かうためには6号線を横断しなくてはならないが、ここで再度許可証のチェックが2度繰り返される。
退場、そして入場。
海へと向かう途中で防護服に身を包んだ集団と出会った。
「あ、」
と言って小野田君は車を停め、撮影の準備に入る。アンソニーとフィリップも無言で後に続く。
「家屋調査だと思います。中間貯蔵施設の用地買収のための…」
ここは福島第一原発から2キロちょっとの場所。このあたり一帯に放射性廃棄物を保管する中間貯蔵施設が建設される計画になっているとのことだ。一時的な保管で済むはずのないことはみんな分かっているので住民の多くは建設に反対している。が、やむにやまれぬ思いで買収に応じる住民も出て来はじめている。
どのみち、ここには帰って来れないのだから…
カメラを向けると防護服の人たちは一斉にこちらを向いて警戒する。あからさまに不快な表情を見せる人もいた。
「町の役場の人かな?」
「いや、民間の委託業者ですね」
カメラを向けながら小野田君が答えてくれた。なんどか遭遇した光景なのだろう。
そのうち一人の女性が小野田君に歩み寄った。やや困惑した口調で、
「撮ってどうするんですか? 困るんですけど」
「いえ。お顔やお宅は判らないようにします」
女性はこの家の方で、周囲の家が建設に反対して買収に応じていない中、このように交渉を進めているのが漏れるとうまくないという事のようだ。
小野田君がしかし映画の趣旨を説明すると、女性の表情はやがて柔らかくなった。役場に勤めていた小野田君のお母さんを知っおられたこともあり、
「そうですか。そういうことならしっかりとこの景色を記録しておいてください。いつか無くなってしまう景色ですから…」
この場所の空間線量0.36μSv毎時。
その道をさらに下ると海に至る。
双葉海水浴場。
震災の傷跡がそこかしこに深く残っている。
震災直後は至る所にこのような景色があったが、今ではもう見ることが少なくなった。
福島の立入制限地域では、しかしどこでも見ることが出来る。
この傷跡が修復されることはこの先、有るのだろうかと思う。
ここで警察の職務質問を受ける。
海に降りて行く様子をどこかで見られていたのだろう。或いはその場所に待機していたのかもしれない。
自宅への一時的帰宅の為に設けられた一時立入の趣旨からすると、このように関係ない場所をうろうろすること自体あまり好ましいことではないのだろう。自分の町の自分の好きな景色を、ただ見るだけなのに…
警察官の姿を認めると、小野田君は求められる前に許可証と免許証を提示しに行った。
「余計なことで時間を無駄にしたくないから」
彼は言う。
彼はこの場所で幼い頃からずっと見てきた双葉の海を撮りたいという。
かつてのマリーンハウスふたば、今は廃屋となった建物に入り、その展望台から海を望む。風が強くてカメラが安定しないというので三脚を押さえる程度のお手伝いをする。
震災の津波による被害を受けたまま、時間が止まってしまったかのような建物の内部だ。
震災直後はやがて麻痺をして、いちいち心に痛みを感じるゆとりを失ってしまったものだが、改めてあのちくちくする痛みがよみがえる。
この場所で楽しい時間を過ごした家族がどれだけ居たことか。
車で少し移動して南下し、そこから再度海に向かう。
福島第一原子力発電所を、もっとも近くから見ることの出来る場所へ。
ここの岸壁はかつてデートスポットで、夜になれば多くの若者が集まったのだということ。
「冬でもけっこう暖かくて」
熱交換して排出された温水が、原発から流れ出ていたせいかもしれない。夜間電力が余っても停めることの出来ない原発は不要となる温水を海に捨てるので、原発の周辺では海水温度が上昇すると聞いたことがある。
ただ、今放出されているのは別の、ずっと冷たい水なのだろう。
富岡で降りた時からずっと感じていたのだが、この秋、原発事故で立ち入りが制限され人が暮らせなくなった区域では、セイタカアワダチソウがとても美しく咲き乱れている。
昨年の秋はこれほどではなかった。
美しいと言っては叱られるかも知れないが、確かにこれだけ広い面積でセイタカアワダチソウが繁茂を許される機会はないのだ。
一面に咲き乱れてしまえば、やはり美しいと感じるしかない。
それにススキの加わった秋の景色。
一面に水田が拡がる双葉の里の景色をアンソニーはこよなく愛したと言っていた。世界で一番美しい場所とさえ言っていた。
それぞれの思いを抱えながら、4人それぞれがそれぞれの景色を切り取り続けていた。
双葉町モノクロ写真展‘HOME TOWN’ 2015.7.
テーマ:東日本大震災復興
2016/01/10 04:40
昨年7月、上尾市の「ぷちとまとアートカフェ」にて標記の写真展が2週間にわたって開催された。
東日本大震災当時、福島県双葉町で英語の補助教員をしていたアンソニー・バラードとフィリップ・ジェーマン。
二人の英国人が記録した震災後の双葉町とかつてそこに住んでいた人々の記録である。
昨年の春、古い友人が加須市の騎西地区にある小学校に赴任した。
騎西は震災と原発事故直後、双葉町の人たちが集団で避難した場所であり、アンソニーとフィリップ両氏も町の人々と共に移り住んでいた。友人の学校で現在もフィリップが補助教員をしていることで、今回の縁が生まれた。
ちなみのその小学校では昨年秋、いわき市での修学旅行を実施している。校長である友人の強い意志と、教職員の皆さんの熱意、保護者の皆さんの深い信頼によるものだと思う。
双葉町の人々は震災後しばらくの間、加須の旧騎西高校に避難しておられたが、その後そのほとんどが故郷に近いいわき市へと移転したため、二人の英国人は一月ごとに加須といわきとを往復しながら、それぞれの小中学校で英語を教えていて、その機会に月一回のペースで双葉町に入り、町の「今」を撮り続けている。
双葉町は福島第一原発の立地する町。事故直後から全町避難が続いており、ごく一部を除いて今なお「帰宅困難区域」の指定を受けている。少なくとも生きているうちには戻る事が出来ないだろうと多くの住民が考えている、そんな厳しい状況にある。
町への立ち入りは16歳以上の住民であれば申請をして、写真展の当時で年15回、一回につき日中の5時間に限って許可されている。(現在は年20回に緩和されている)
その中で二人が撮り続ける写真には、人々が住めなくなって久しい町の現在の姿と、苦悩する町の人々とが映し出されている。
フィリップがいくらでも撮って良いよと言ってくれたので、好きな写真を撮らせてもらった。
もっとも心に強く響いたのがこの「ピアニスト」という写真。
彼らの教え子たちは震災直後まだ16歳に満たなかったから、町への一時立入が許可されるようになっても自宅に戻ることが出来ない。アンソニーが町に入って写真を撮り続けていることを知った彼女は、自宅の写真を撮ってきて欲しいとアンソニーに頼んだという。
そして2014年、ようやく16歳になった彼女は自宅に戻った。たまたまその近くを通りかかったアンソニーを見つけた彼女は、彼を自宅に招き入れ、出来ることなら持ち出したかったという思い出のピアノに向かって演奏をした。そういう写真である。
自宅なのに戻りたくても戻れない。大切な品なのに持ち出したくても持ち出せない。
深い悲しみに満ちた写真であり、二人の心の通い合いが温かく伝わってくる写真である。
「職務質問」
町への一時立入の際には出入りの際だけで無く、何ヶ所かのチェックポイントで許可証や身分証明書の提示が求められる。特に彼らは自宅への立ち入りだけでなく町の中を撮影のために動き回るので、その都度見とがめられて警察からの職務質問を受ける。
ただでさえ5時間しか与えられていない貴重な時間を、そのようにして奪われることに彼らは強い苛立ちを感じる事があるという。また、住民の中には自分の町に入るのにどうしてこのように監視されなければならないのか、それを屈辱的に感じる方も居られるとのことだった。
「ジャンプ!」
写っているのは二人の一時立入に同行することの多い小野田明君。双葉町出身の茨城大大学院生。映像芸術について学び、修論で現在双葉町の記録映画を製作している。
この写真展(前回の茨城大学会場とこの上尾会場、その後の大洗会場)の企画運営にも当たっている。
この後わたしは、彼らの双葉町への一時立入に同行させてもらう事になるのだが、その際にも彼の車に同乗させてもらうなど、大変お世話になった。写真の通りの好青年である。
「亜然」
この建物は小野田君のお母さんの実家。
地震のよって大切な思い出の場所が壊れるだけなら諦めもつく。しかし、そこに近づくことが出来ないというのは別だろう。片付けることも、思い出の品物を探すことも出来ない。日々朽ちていく建物をただ見守るしかない。そんなやり場のない哀しみが伝わってくる写真だ。
写真展の最終日。
イギリスに帰っていたアンソニーも加わり、会場で二人のトークセッションとスライドの上映会が行われた。地元の皆さん、双葉から避難して今なお埼玉に暮らす方たち、それとわれわれの仲間が集まった。
二人にとって双葉は単に職場ではなく、人生の途中に立ち寄った一時的な場所でもなかった。そこを心から愛し、そこにこのまま暮らし続けたいと考えた場所。この写真展のテーマである「ふるさと~HOME TOWN」そのものだった。
これはその後、NHKのドキュメンタリー「明日へ~支えあおう~」の中で紹介されたことだが、アンソニーたちは震災当初、うまく日本語を使えないために自分たちがどのように動けば良いか分からなかった。
途方に暮れ、さまよった挙げ句にようやく町民の皆さんが避難した先に合流できた。再会した子どもたちとチョコレートを分けあったという。
その後イギリスのお母さんとようやく連絡が取れた時、お母さんは帰ってくるよう涙ながらに強く懇願する。お母さんの身体を案じたアンソニーはいったん帰国するが、そのままイギリスに留まるよう求める母親に対し、「避難していった子どもたちを放ってはおけない」、「自分の戻る場所は福島しかない」と説得し再び双葉の子どもたちの許に戻ったということだ。
双葉町の今を少しでも多くの人たちに知ってもらいたい。
双葉町をいつまでも忘れないでいてもらいたい。
そのような思いを込めて、今後も要請があればどこへでも写真を持って行きたいと二人は語っている。
東日本大震災当時、福島県双葉町で英語の補助教員をしていたアンソニー・バラードとフィリップ・ジェーマン。
二人の英国人が記録した震災後の双葉町とかつてそこに住んでいた人々の記録である。
昨年の春、古い友人が加須市の騎西地区にある小学校に赴任した。
騎西は震災と原発事故直後、双葉町の人たちが集団で避難した場所であり、アンソニーとフィリップ両氏も町の人々と共に移り住んでいた。友人の学校で現在もフィリップが補助教員をしていることで、今回の縁が生まれた。
ちなみのその小学校では昨年秋、いわき市での修学旅行を実施している。校長である友人の強い意志と、教職員の皆さんの熱意、保護者の皆さんの深い信頼によるものだと思う。
双葉町の人々は震災後しばらくの間、加須の旧騎西高校に避難しておられたが、その後そのほとんどが故郷に近いいわき市へと移転したため、二人の英国人は一月ごとに加須といわきとを往復しながら、それぞれの小中学校で英語を教えていて、その機会に月一回のペースで双葉町に入り、町の「今」を撮り続けている。
双葉町は福島第一原発の立地する町。事故直後から全町避難が続いており、ごく一部を除いて今なお「帰宅困難区域」の指定を受けている。少なくとも生きているうちには戻る事が出来ないだろうと多くの住民が考えている、そんな厳しい状況にある。
町への立ち入りは16歳以上の住民であれば申請をして、写真展の当時で年15回、一回につき日中の5時間に限って許可されている。(現在は年20回に緩和されている)
その中で二人が撮り続ける写真には、人々が住めなくなって久しい町の現在の姿と、苦悩する町の人々とが映し出されている。
フィリップがいくらでも撮って良いよと言ってくれたので、好きな写真を撮らせてもらった。
もっとも心に強く響いたのがこの「ピアニスト」という写真。
彼らの教え子たちは震災直後まだ16歳に満たなかったから、町への一時立入が許可されるようになっても自宅に戻ることが出来ない。アンソニーが町に入って写真を撮り続けていることを知った彼女は、自宅の写真を撮ってきて欲しいとアンソニーに頼んだという。
そして2014年、ようやく16歳になった彼女は自宅に戻った。たまたまその近くを通りかかったアンソニーを見つけた彼女は、彼を自宅に招き入れ、出来ることなら持ち出したかったという思い出のピアノに向かって演奏をした。そういう写真である。
自宅なのに戻りたくても戻れない。大切な品なのに持ち出したくても持ち出せない。
深い悲しみに満ちた写真であり、二人の心の通い合いが温かく伝わってくる写真である。
「職務質問」
町への一時立入の際には出入りの際だけで無く、何ヶ所かのチェックポイントで許可証や身分証明書の提示が求められる。特に彼らは自宅への立ち入りだけでなく町の中を撮影のために動き回るので、その都度見とがめられて警察からの職務質問を受ける。
ただでさえ5時間しか与えられていない貴重な時間を、そのようにして奪われることに彼らは強い苛立ちを感じる事があるという。また、住民の中には自分の町に入るのにどうしてこのように監視されなければならないのか、それを屈辱的に感じる方も居られるとのことだった。
「ジャンプ!」
写っているのは二人の一時立入に同行することの多い小野田明君。双葉町出身の茨城大大学院生。映像芸術について学び、修論で現在双葉町の記録映画を製作している。
この写真展(前回の茨城大学会場とこの上尾会場、その後の大洗会場)の企画運営にも当たっている。
この後わたしは、彼らの双葉町への一時立入に同行させてもらう事になるのだが、その際にも彼の車に同乗させてもらうなど、大変お世話になった。写真の通りの好青年である。
「亜然」
この建物は小野田君のお母さんの実家。
地震のよって大切な思い出の場所が壊れるだけなら諦めもつく。しかし、そこに近づくことが出来ないというのは別だろう。片付けることも、思い出の品物を探すことも出来ない。日々朽ちていく建物をただ見守るしかない。そんなやり場のない哀しみが伝わってくる写真だ。
写真展の最終日。
イギリスに帰っていたアンソニーも加わり、会場で二人のトークセッションとスライドの上映会が行われた。地元の皆さん、双葉から避難して今なお埼玉に暮らす方たち、それとわれわれの仲間が集まった。
二人にとって双葉は単に職場ではなく、人生の途中に立ち寄った一時的な場所でもなかった。そこを心から愛し、そこにこのまま暮らし続けたいと考えた場所。この写真展のテーマである「ふるさと~HOME TOWN」そのものだった。
これはその後、NHKのドキュメンタリー「明日へ~支えあおう~」の中で紹介されたことだが、アンソニーたちは震災当初、うまく日本語を使えないために自分たちがどのように動けば良いか分からなかった。
途方に暮れ、さまよった挙げ句にようやく町民の皆さんが避難した先に合流できた。再会した子どもたちとチョコレートを分けあったという。
その後イギリスのお母さんとようやく連絡が取れた時、お母さんは帰ってくるよう涙ながらに強く懇願する。お母さんの身体を案じたアンソニーはいったん帰国するが、そのままイギリスに留まるよう求める母親に対し、「避難していった子どもたちを放ってはおけない」、「自分の戻る場所は福島しかない」と説得し再び双葉の子どもたちの許に戻ったということだ。
双葉町の今を少しでも多くの人たちに知ってもらいたい。
双葉町をいつまでも忘れないでいてもらいたい。
そのような思いを込めて、今後も要請があればどこへでも写真を持って行きたいと二人は語っている。
2016年のスタートに際して
テーマ:思い
2016/01/06 06:22
新年あけましておめでとうございます。
そして、お久しぶりです。
バタバタと、ただバタバタと慌ただしく過ごしてきた昨年2015年は、しかし内容の濃い年でもありました。
5月には念願だった宮城県山元町におけるフラワーカーペットの製作を、それこそ大勢の地元の皆さんの力を借りて実現することが出来、田んぼの生きもの調査も地元小川町と山元町の両方でそれぞれ、これも念願が叶って大勢の子どもたちに参加してもらって実施することが出来ました。
被災地での活動はすでに「支援」というより、他の支援者の皆さんに対するバックアップやお膳立て、お手伝いといった方向に進み始めており、夏の豪雨被災地やネパール大地震に対する取組もまだまだ続いていくことになると思います。
そしてあの震災以来、不思議なことにずっと宮城県の外に出られなかったわたしが、始めて福島県との関わりを持てるようになりました。
今年はさらに自分の活動の枠を拡げていくことになろうかと思いますが、ここまでがあまりに恵まれた環境におりましたので、そうそういつまでも楽は出来ないだろうと覚悟をしているところです。
過酷な環境下にあって今なお明確な未来が見えないという方は多くおられます。
寄り添う、なんてことはとんでもない奢りですが、せめて自分の立ち位置に関しては謙虚でありたいと、新年を迎えるにあたり思うところです。
本年もまた、なかなか更新が出来ないこととは思いますが、どうか引き続きよろしくお願いいたします!