荒浜の海岸にて
テーマ:東日本大震災復興
2012/08/29 22:55
以下、心の整理のために。
仙台荒浜の海岸で見たこの立て札。
津波によってふるさとを奪われたこの土地の方たちは、災害危険区域に指定されたことでそのふるさとを取り戻す機会を永遠に失おうとしている…
暮らしと共に歴史や文化まで失ってしまうという危機感。
…ここにもまた再生に向けた険しい道のりがあります。
その荒浜の、荒廃した海水浴場を見学した際のこと。
地元の人らしい、小さな男のお子さんを連れた若いお父さんに声を掛けられました。
「関東から来て、みなさん興味本位で写真を撮っているんですかね」
どうやらわれわれのグループのことを言っておられる様子。
確かに大型バスから大勢で海岸に降り立てば、そのように思われても仕方ないかなと思いつつ事情を説明し、
「今あそこでリーダーの男が、この場所でどのような事があったのか、みんなに詳しく説明しています。わたしたちはそのように、この震災の実態を少しでも正しく知りたいと思っていて、周りの人たちにも伝えたいと思っていて…そういうつもりで写真も撮っているのですが」
とても疲れ果てた目をした男性は、それでもとても懐疑的で、
「でもやっぱり…複雑なんですよね。みなさん本当にここで被災した地元の人たちの気持ちを、どれだけ分かってるのかなってね」
わたしは、たとえ興味本位でも物見遊山でも、観光でも遊びでも、少しでも多くの人が被災地を訪れるべきだと思っている。
何よりも今大切なのは、日本人がこの被災地のことを忘れないこと。気にかけ続けること。痛みを感じ続けること。被災した方たちに、間違っても自分たちが忘れ去られようとしているなんて感じさせてはならないということ。
でも、目の前の男性にそんなことを言っても何の意味もないのは明白でした。
彼が今、ここで少なからず傷つけられている事実に変わりはないのだから。
でも一方で再生を願い、その為の力を貸してほしいと願う地元の方も多く居るわけで、われわれが今迷ったり躊躇ったりすることは違うのだと思います。
ただ、傷つく人があるならその人から決して目をそらしてはいけないだろう…
そう思ってわたしはずっとその男性の話を聞き続けました。
そういえば山元町の被災地の中心、坂元駅で土を運んだり花の種を蒔いていた時も、多くのクルマがやってきてはわれわれの姿を見てそのままUターンして去って行くという場面に何度か逢いました。
いや、そうじゃなくて…出来ればここに降りたって被災地を目に焼き付けてほしい、われわれに話しかけて一緒にこの町の過去と未来に関する話をしてほしい。何度となくそのように願いましたが、わたし自身の最初の頃を思えば、その気持ちもよく分かります。
被災地にカメラを向けることを罪深く感じ、その中でクルマを走らせることに後ろめたさを感じたものでした。
地元のみなさんと知り合い、言葉を交わすうちにそうした意識は徐々に払拭することが出来ましたが…
受け止められる地元の皆さんもまた、いろいろな視点を持っておられるわけで…
荒浜海岸の男性の言う「複雑な気持ち」というのが本当のところなのでしょう。
閖上中学校の献花台のそばに置かれた机。
そこに記されたメッセージを忘れてはいけないと思います。
あの日大勢の人達が津波から逃れる為、この閖中を目指して走りました。
街の復興はとても大切な事です。
でも沢山の人達の命が今もここにある事を忘れないでほしい。
死んだら終わりですか?
生き残った私達に出来る事を考えます。
閖上中の大切な大切な仲間14人が
やすらかな眠りにつける様祈っています。
津波は忘れても14人を忘れないでいてほしい。
いつも一緒だよ
それはそれほど難しいことでは無いでしょう。
別にボランティアなどと気負い込むことも無いと思います。
ずっと忘れないでい続けること。
気にかけ続けること。
同じ痛みを感じ続けること。
その為には何度も繰り返しそこを訪れて、地元の方と言葉を交わし続ければ良いのだと思います。
いえ、離れていても良いでしょう。
とにかく、忘れないこと。覚えていること。
日本はあの日以来しばらくの間、何もかも放り投げるようにして東日本の被災地と寄り添いました。
それが今慌てて、まるでその時のロスを取り戻すかのような勢いで前に進もうとしています。
それはそれで良いのかも知れない。みんなで途方に暮れているばかりでは、永遠に被災地の復興はないでしょうから。
でも、そのように日本人全体が、被災地の一部の人たちも含めて一斉に前を向いてしまったら、後に取り残されるよりない人たちはどうなるのでしょうか?
福島の方たちの痛みをまるで無視して経済性だけを優先するかのように大飯原発を再稼働したり、それがどれだけ被災地の経済を疲弊させるかという議論を持つこともなく消費税増税を決めたり…
わたしは取り残されてしまう人が大勢いるうちは、何も慌てて先に進むことは無いだろうと考えます。
もっとみんなで一緒に不自由を味わってもいい。
そう思ったから、この一ヶ月の間、自分の経済活動をあえて停止しました。というより、停止しない訳にはいかない心情になってしまいました。あまりにもみんなが揃って先へ先へと歩き出してしまったから…
とまあ、そういう心の整理をしないことにはなかなか社会復帰が出来ずに居る自分がいたものですから…
さて。
少しは前に進んでいきましょう。
後ろをふり返りふり返り…
いや。
そちら側が本当に後ろなのかといつも気に掛けながら、自分の前だと信じる方角をいつでも疑いながら…
仙台荒浜の海岸で見たこの立て札。
津波によってふるさとを奪われたこの土地の方たちは、災害危険区域に指定されたことでそのふるさとを取り戻す機会を永遠に失おうとしている…
暮らしと共に歴史や文化まで失ってしまうという危機感。
…ここにもまた再生に向けた険しい道のりがあります。
その荒浜の、荒廃した海水浴場を見学した際のこと。
地元の人らしい、小さな男のお子さんを連れた若いお父さんに声を掛けられました。
「関東から来て、みなさん興味本位で写真を撮っているんですかね」
どうやらわれわれのグループのことを言っておられる様子。
確かに大型バスから大勢で海岸に降り立てば、そのように思われても仕方ないかなと思いつつ事情を説明し、
「今あそこでリーダーの男が、この場所でどのような事があったのか、みんなに詳しく説明しています。わたしたちはそのように、この震災の実態を少しでも正しく知りたいと思っていて、周りの人たちにも伝えたいと思っていて…そういうつもりで写真も撮っているのですが」
とても疲れ果てた目をした男性は、それでもとても懐疑的で、
「でもやっぱり…複雑なんですよね。みなさん本当にここで被災した地元の人たちの気持ちを、どれだけ分かってるのかなってね」
わたしは、たとえ興味本位でも物見遊山でも、観光でも遊びでも、少しでも多くの人が被災地を訪れるべきだと思っている。
何よりも今大切なのは、日本人がこの被災地のことを忘れないこと。気にかけ続けること。痛みを感じ続けること。被災した方たちに、間違っても自分たちが忘れ去られようとしているなんて感じさせてはならないということ。
でも、目の前の男性にそんなことを言っても何の意味もないのは明白でした。
彼が今、ここで少なからず傷つけられている事実に変わりはないのだから。
でも一方で再生を願い、その為の力を貸してほしいと願う地元の方も多く居るわけで、われわれが今迷ったり躊躇ったりすることは違うのだと思います。
ただ、傷つく人があるならその人から決して目をそらしてはいけないだろう…
そう思ってわたしはずっとその男性の話を聞き続けました。
そういえば山元町の被災地の中心、坂元駅で土を運んだり花の種を蒔いていた時も、多くのクルマがやってきてはわれわれの姿を見てそのままUターンして去って行くという場面に何度か逢いました。
いや、そうじゃなくて…出来ればここに降りたって被災地を目に焼き付けてほしい、われわれに話しかけて一緒にこの町の過去と未来に関する話をしてほしい。何度となくそのように願いましたが、わたし自身の最初の頃を思えば、その気持ちもよく分かります。
被災地にカメラを向けることを罪深く感じ、その中でクルマを走らせることに後ろめたさを感じたものでした。
地元のみなさんと知り合い、言葉を交わすうちにそうした意識は徐々に払拭することが出来ましたが…
受け止められる地元の皆さんもまた、いろいろな視点を持っておられるわけで…
荒浜海岸の男性の言う「複雑な気持ち」というのが本当のところなのでしょう。
閖上中学校の献花台のそばに置かれた机。
そこに記されたメッセージを忘れてはいけないと思います。
あの日大勢の人達が津波から逃れる為、この閖中を目指して走りました。
街の復興はとても大切な事です。
でも沢山の人達の命が今もここにある事を忘れないでほしい。
死んだら終わりですか?
生き残った私達に出来る事を考えます。
閖上中の大切な大切な仲間14人が
やすらかな眠りにつける様祈っています。
津波は忘れても14人を忘れないでいてほしい。
いつも一緒だよ
それはそれほど難しいことでは無いでしょう。
別にボランティアなどと気負い込むことも無いと思います。
ずっと忘れないでい続けること。
気にかけ続けること。
同じ痛みを感じ続けること。
その為には何度も繰り返しそこを訪れて、地元の方と言葉を交わし続ければ良いのだと思います。
いえ、離れていても良いでしょう。
とにかく、忘れないこと。覚えていること。
日本はあの日以来しばらくの間、何もかも放り投げるようにして東日本の被災地と寄り添いました。
それが今慌てて、まるでその時のロスを取り戻すかのような勢いで前に進もうとしています。
それはそれで良いのかも知れない。みんなで途方に暮れているばかりでは、永遠に被災地の復興はないでしょうから。
でも、そのように日本人全体が、被災地の一部の人たちも含めて一斉に前を向いてしまったら、後に取り残されるよりない人たちはどうなるのでしょうか?
福島の方たちの痛みをまるで無視して経済性だけを優先するかのように大飯原発を再稼働したり、それがどれだけ被災地の経済を疲弊させるかという議論を持つこともなく消費税増税を決めたり…
わたしは取り残されてしまう人が大勢いるうちは、何も慌てて先に進むことは無いだろうと考えます。
もっとみんなで一緒に不自由を味わってもいい。
そう思ったから、この一ヶ月の間、自分の経済活動をあえて停止しました。というより、停止しない訳にはいかない心情になってしまいました。あまりにもみんなが揃って先へ先へと歩き出してしまったから…
とまあ、そういう心の整理をしないことにはなかなか社会復帰が出来ずに居る自分がいたものですから…
さて。
少しは前に進んでいきましょう。
後ろをふり返りふり返り…
いや。
そちら側が本当に後ろなのかといつも気に掛けながら、自分の前だと信じる方角をいつでも疑いながら…
十三浜にソーラーパネルを届ける
テーマ:東日本大震災復興
2012/08/28 22:26
長かった8月が間もなく終わろうとしています。
多くのお客さまに迷惑を掛けながら、仕事の合間に…ではなく、東北での3つの活動の合間に仕事をするという毎日でした。
もちろん、そんな片手間に出来る仕事であろう筈は無いから、この一ヶ月は現場仕事をすべて休みにして設計に専念しようとしたのですが、いつもの事ながら連日の暑さに思うに任せない…そんな毎日でもありました。
7月下旬のある日。
わたしは古い友人たちが主催するNPOの、とある活動に参加させてもらうことが出来ました。
それは子どもたちを中心に手作りしたソーラーパネルを、石巻の十三浜という被災地に届けて設置してもらうというもの。その2回目の製作が行われたのが7月の下旬で、まさにその石巻の北上川で干潟の調査をし、帰路に山元町を訪ねたその翌日のことでした。
震災の被災地や発展途上国に手作りのソーラーパネルとその技術とを届け続けるソーラーネットのSさんに指導を乞い、福島県いわき市を拠点にして被災地に太陽光発電施設を設置し続けるインディアン・ビレッジの皆さんの協力を得て、われわれの仲間たちが製作した2枚のパネルは、震災後いまだ街灯の明かりの戻らない石巻市の十三浜にある、とあるログハウスに設置される運びとなりました。
そしてその設置場所はなんと、われわれの古い仲間の娘さんが勤務していた小学校のすぐ近くという縁が重なりました。そしてまた、わたしがこの夏、田んぼと干潟の生き物調査に参加させてもらったのもその側という偶然…
1枚のパネルが生み出す電気は20ボルト足らず。
でも、それを行政や企業に頼らないで中高生も加わったまったくの手作りで生み出せるということを知り得たのは、とても意味深いことでした。
そして、その中高生たちとわれわれの古い仲間たちとが、設置されたソーラーパネルを見に出かけたのが先々週のこと。それは同時に被災した小中学校を訪ねる旅でもありました。
名取市の閖上中学校。
ここでも14人の尊い命が失われました。
そのすぐ側の保育園跡に建てられた「閖上(ゆりあげ)の記憶」と名付けられた建物。
そこでは津波による被害の実態を克明に記録し、記憶し、後生に伝えようとする強い意志がありました。
それが再生に至る唯一の道というなら、それは間違いなくそうであろうと思います。
その展示物の一つに被災した子どもたちが粘土で作った町の風景がありました。
それは震災前の懐かしい町の姿であり、まさに津波に襲われている町の姿であり、彼らがこれから建設したいと願う未来の町の姿です。
それらの製作を段階的に行っていくことで子どもたちの心を再生させていくという取り組み。
確かに自分たちに襲いかかった津波を思い出すという行為は、大人にとってさえ辛いことであり、まして子どもたちの傷の深さはどれほどだったでしょうか。
でも…
子どもたちはこのようにしてしっかりと現実を受け止め、そのことでもう一度生きていく力を取り戻していくのだと、わたしもそこで確信することができました。
仙台市荒浜小学校。
石巻市大川小学校。
そして、ここがわたしたちの古い仲間の娘さんが勤務していた相川小学校です。
幸いこの小学校では全員が地区の人たちと一緒に裏山に登り、校舎は壊滅的な被害を受けたものの一人の命も失われることは無かったとのことでした。
その裏山に続く山道の入り口に立って、本当によくこんなところを登ったものだと、今更のように感心したものでした。
そして、ソーラーパネルはそこから歩いてわずか5分程度の場所にありました。
やはり手作りで建てられたログハウスの中には小さな窯が納められていました。
このソーラーパネルが、この先どんな明かりを点し、その明かりがどのような人々の営みを照らしていくのか…
その先にどのような再生が始まるのか…
それらを確かめる為には、やはりこの先何度もこの場所を訪れるしかないのだろうと、強く深く、そう思いました。
多くのお客さまに迷惑を掛けながら、仕事の合間に…ではなく、東北での3つの活動の合間に仕事をするという毎日でした。
もちろん、そんな片手間に出来る仕事であろう筈は無いから、この一ヶ月は現場仕事をすべて休みにして設計に専念しようとしたのですが、いつもの事ながら連日の暑さに思うに任せない…そんな毎日でもありました。
7月下旬のある日。
わたしは古い友人たちが主催するNPOの、とある活動に参加させてもらうことが出来ました。
それは子どもたちを中心に手作りしたソーラーパネルを、石巻の十三浜という被災地に届けて設置してもらうというもの。その2回目の製作が行われたのが7月の下旬で、まさにその石巻の北上川で干潟の調査をし、帰路に山元町を訪ねたその翌日のことでした。
震災の被災地や発展途上国に手作りのソーラーパネルとその技術とを届け続けるソーラーネットのSさんに指導を乞い、福島県いわき市を拠点にして被災地に太陽光発電施設を設置し続けるインディアン・ビレッジの皆さんの協力を得て、われわれの仲間たちが製作した2枚のパネルは、震災後いまだ街灯の明かりの戻らない石巻市の十三浜にある、とあるログハウスに設置される運びとなりました。
そしてその設置場所はなんと、われわれの古い仲間の娘さんが勤務していた小学校のすぐ近くという縁が重なりました。そしてまた、わたしがこの夏、田んぼと干潟の生き物調査に参加させてもらったのもその側という偶然…
1枚のパネルが生み出す電気は20ボルト足らず。
でも、それを行政や企業に頼らないで中高生も加わったまったくの手作りで生み出せるということを知り得たのは、とても意味深いことでした。
そして、その中高生たちとわれわれの古い仲間たちとが、設置されたソーラーパネルを見に出かけたのが先々週のこと。それは同時に被災した小中学校を訪ねる旅でもありました。
名取市の閖上中学校。
ここでも14人の尊い命が失われました。
そのすぐ側の保育園跡に建てられた「閖上(ゆりあげ)の記憶」と名付けられた建物。
そこでは津波による被害の実態を克明に記録し、記憶し、後生に伝えようとする強い意志がありました。
それが再生に至る唯一の道というなら、それは間違いなくそうであろうと思います。
その展示物の一つに被災した子どもたちが粘土で作った町の風景がありました。
それは震災前の懐かしい町の姿であり、まさに津波に襲われている町の姿であり、彼らがこれから建設したいと願う未来の町の姿です。
それらの製作を段階的に行っていくことで子どもたちの心を再生させていくという取り組み。
確かに自分たちに襲いかかった津波を思い出すという行為は、大人にとってさえ辛いことであり、まして子どもたちの傷の深さはどれほどだったでしょうか。
でも…
子どもたちはこのようにしてしっかりと現実を受け止め、そのことでもう一度生きていく力を取り戻していくのだと、わたしもそこで確信することができました。
仙台市荒浜小学校。
石巻市大川小学校。
そして、ここがわたしたちの古い仲間の娘さんが勤務していた相川小学校です。
幸いこの小学校では全員が地区の人たちと一緒に裏山に登り、校舎は壊滅的な被害を受けたものの一人の命も失われることは無かったとのことでした。
その裏山に続く山道の入り口に立って、本当によくこんなところを登ったものだと、今更のように感心したものでした。
そして、ソーラーパネルはそこから歩いてわずか5分程度の場所にありました。
やはり手作りで建てられたログハウスの中には小さな窯が納められていました。
このソーラーパネルが、この先どんな明かりを点し、その明かりがどのような人々の営みを照らしていくのか…
その先にどのような再生が始まるのか…
それらを確かめる為には、やはりこの先何度もこの場所を訪れるしかないのだろうと、強く深く、そう思いました。
「この町で」
テーマ:東日本大震災復興
2012/08/10 06:37
前回のブログで紹介した、山元町の歌を作り隊の皆さん制作「この町で」が、youtubeでアップされました。
本当に素敵な歌です。
併せて会場の雰囲気もお楽しみ頂けたらと思います。
http://www.youtube.com/watch?v=adln855Jh54
本当に素敵な歌です。
併せて会場の雰囲気もお楽しみ頂けたらと思います。
http://www.youtube.com/watch?v=adln855Jh54