初夏の山元町、復興した田んぼを訪ねる
テーマ:東日本大震災復興
2013/06/01 23:29
今年もまた、アースウォッチ・ジャパンと東北大学生命科学研究科との共同プロジェクト、東日本グリーン復興モニタリングプロジェクトがスタートしました。
プロジェクトの詳細については昨年のブログをご覧いただくとして…
昨年の計5回参加というのは、われながらどんなもんかという思いがあって、仕事の方に少し影響が出たということもあり、後で聞けば参加申し込みが多くてキャンセル待ちが出た回も有ったとか…。チャンスを他の方に譲る意味でも、少しは遠慮した方が良いだろうと考えました。
というわけで今回は3回です。
その初回が6月1、2日、仙台若林区で行われるため、前日から宮城県に入りました。
ずっとお邪魔し続けている亘理郡山元町。
今年はかなり田んぼの復興が進んだと聞き、その様子を見学させてもらうことにしました。
まずは必ず訪問して手を合わせることにしている、旧坂元駅前。
かつて冷たいみぞれの降る中、寒さに震えながら菜の花や球根を植え付けた花壇が、その後も色々な方たちの手によって整備され、今は季節外れの菜の花が満開でした。本当は1年目の3.11に間に合わせよう寒咲き品種を植えたはずでしたが、よほど今年の春が寒かったのでしょうか? いま咲いているのはその時のこぼれ種と聞きましたが、もしかするとどなたかが追加で播いて下さったものかもしれませんね。
駅周辺はやけに騒がしく、ホーム跡に登って浜通りを眺めてみると、大型ダンプの列が延々と続いていました。
ちょうど昼休み空けの時間帯だったからでしょう。
海岸線の復旧工事、がれきの運搬、常磐道延伸工事など、このあたり大型ダンプがひっきりなしに走っていました。住民の皆さんの安全は最優先にされているはずですが、復興を急ぐ気持ちがあせれば事故も起こりかねません。充分に注意して頂きたいと思いました。
反対側に目をやると…
はじめは何か分かりませんでしたが、後で聞くと除塩のためにすき取った土砂の山なのだとか。
そうそう、ここ山元でも田んぼの復興がかなり進んだとのお知らせを受けていました。
それがあったので、翌日からの仙台の田んぼの調査に先立ち、こちらも訪ねて見たいと思っていたのでした。
除塩が済み、区画と水路が整備され、震災後はじめ作付された田んぼです。
まだ苗がとても若いので、ごく最近の作付けだったのでしょう。
ただ、そのすぐ隣にはまだ水も張られていない田んぼもありますし、整備前の田んぼも、まったく手つかずの田んぼも混然として存在しています。
中には整備を終えているのに生産調整で作付が出来ない田んぼもありました。
こうして被災地を訪ねると、いつもそうした混乱や矛盾や先が見えてこない不安を目の当たりにします。
しばらく畦に座り込んで水の中を覗き込んでみました。
きらきらの光る水面の向こうに様々なミジンコがうようよと泳いでいました。
あとは水面を走るヒメアメンボたち。
この季節に水を張られてキラキラと輝く田んぼのある景色は、ごくごく当たり前の景色でいながら、それでもここではそれがとても大切で温かく、たくさんの生命の息遣いを感じさせてくれる貴重なものでした。
場所を変えて旧山下駅に車を停めせてもらい、周囲をぐるりと歩いてみました。
線路の海側にはまだまだ復興の気配は少なく、もちろん田んぼの復旧などいつのことか…
こちらの田んぼはいまポピーが花盛りでした。
海に近い水田の復興はやはり難しく、今後は大豆畑として再生していくという話も浮上しているようですが、それより何より先に人の暮らしそのものがどう再生出来るかという話で、
宅地と畑の多くにはいま何故かクローバーが咲き乱れて甘い香りを放っていました。
そしてハリエンジュ(ニセアカシア)みたいなマメ科の先駆植物たちが、人の戻れなくなった宅地を席巻し始めていて…
自然の再生はすでに始まっている様子。
人間も負けていられません。
山下の復興しつつある田んぼ。
まだまだ様々な状況の田んぼが混在している段階ではありますが、来年の今頃には「この町で」で歌われている
キラキラ光る田んぼ
みどりのじゅうたん
という、なつかしい風景が広がっていることを願いつつ…
今回の山元町でも、わずかな時間ながら、色々な方とお話をする機会に恵まれました。
教育委員会でずっとお世話になってきた方、役場の支所で休みのほとんどを返上して奔走されている方、市民の立場で町の復興に尽力されている方、授産施設のスタッフの方…
勉強になりました。
たくさんのことを考えさせられました。
これからまた、そこで学んだ事を伝えられればと思います。
今日はグリーン復興プロジェクトの初日。
仙台若林での調査を終えた多賀城の宿です。
また改めて、その報告もさせていただきます。
プロジェクトの詳細については昨年のブログをご覧いただくとして…
昨年の計5回参加というのは、われながらどんなもんかという思いがあって、仕事の方に少し影響が出たということもあり、後で聞けば参加申し込みが多くてキャンセル待ちが出た回も有ったとか…。チャンスを他の方に譲る意味でも、少しは遠慮した方が良いだろうと考えました。
というわけで今回は3回です。
その初回が6月1、2日、仙台若林区で行われるため、前日から宮城県に入りました。
ずっとお邪魔し続けている亘理郡山元町。
今年はかなり田んぼの復興が進んだと聞き、その様子を見学させてもらうことにしました。
まずは必ず訪問して手を合わせることにしている、旧坂元駅前。
かつて冷たいみぞれの降る中、寒さに震えながら菜の花や球根を植え付けた花壇が、その後も色々な方たちの手によって整備され、今は季節外れの菜の花が満開でした。本当は1年目の3.11に間に合わせよう寒咲き品種を植えたはずでしたが、よほど今年の春が寒かったのでしょうか? いま咲いているのはその時のこぼれ種と聞きましたが、もしかするとどなたかが追加で播いて下さったものかもしれませんね。
駅周辺はやけに騒がしく、ホーム跡に登って浜通りを眺めてみると、大型ダンプの列が延々と続いていました。
ちょうど昼休み空けの時間帯だったからでしょう。
海岸線の復旧工事、がれきの運搬、常磐道延伸工事など、このあたり大型ダンプがひっきりなしに走っていました。住民の皆さんの安全は最優先にされているはずですが、復興を急ぐ気持ちがあせれば事故も起こりかねません。充分に注意して頂きたいと思いました。
反対側に目をやると…
はじめは何か分かりませんでしたが、後で聞くと除塩のためにすき取った土砂の山なのだとか。
そうそう、ここ山元でも田んぼの復興がかなり進んだとのお知らせを受けていました。
それがあったので、翌日からの仙台の田んぼの調査に先立ち、こちらも訪ねて見たいと思っていたのでした。
除塩が済み、区画と水路が整備され、震災後はじめ作付された田んぼです。
まだ苗がとても若いので、ごく最近の作付けだったのでしょう。
ただ、そのすぐ隣にはまだ水も張られていない田んぼもありますし、整備前の田んぼも、まったく手つかずの田んぼも混然として存在しています。
中には整備を終えているのに生産調整で作付が出来ない田んぼもありました。
こうして被災地を訪ねると、いつもそうした混乱や矛盾や先が見えてこない不安を目の当たりにします。
しばらく畦に座り込んで水の中を覗き込んでみました。
きらきらの光る水面の向こうに様々なミジンコがうようよと泳いでいました。
あとは水面を走るヒメアメンボたち。
この季節に水を張られてキラキラと輝く田んぼのある景色は、ごくごく当たり前の景色でいながら、それでもここではそれがとても大切で温かく、たくさんの生命の息遣いを感じさせてくれる貴重なものでした。
場所を変えて旧山下駅に車を停めせてもらい、周囲をぐるりと歩いてみました。
線路の海側にはまだまだ復興の気配は少なく、もちろん田んぼの復旧などいつのことか…
こちらの田んぼはいまポピーが花盛りでした。
海に近い水田の復興はやはり難しく、今後は大豆畑として再生していくという話も浮上しているようですが、それより何より先に人の暮らしそのものがどう再生出来るかという話で、
宅地と畑の多くにはいま何故かクローバーが咲き乱れて甘い香りを放っていました。
そしてハリエンジュ(ニセアカシア)みたいなマメ科の先駆植物たちが、人の戻れなくなった宅地を席巻し始めていて…
自然の再生はすでに始まっている様子。
人間も負けていられません。
山下の復興しつつある田んぼ。
まだまだ様々な状況の田んぼが混在している段階ではありますが、来年の今頃には「この町で」で歌われている
キラキラ光る田んぼ
みどりのじゅうたん
という、なつかしい風景が広がっていることを願いつつ…
今回の山元町でも、わずかな時間ながら、色々な方とお話をする機会に恵まれました。
教育委員会でずっとお世話になってきた方、役場の支所で休みのほとんどを返上して奔走されている方、市民の立場で町の復興に尽力されている方、授産施設のスタッフの方…
勉強になりました。
たくさんのことを考えさせられました。
これからまた、そこで学んだ事を伝えられればと思います。
今日はグリーン復興プロジェクトの初日。
仙台若林での調査を終えた多賀城の宿です。
また改めて、その報告もさせていただきます。
講演会「新しい日常を創る」を終えて
テーマ:東日本大震災復興
2013/04/05 05:42
去る3月30日、鴻巣市の吹上コスモスアリーナ講習室にて、NPO法人しゃぼん玉の会のご厚意により講演会を開催させていただきました。
雨の日にも関わらず様々な分野で活躍されている皆さんが16名、集まって下さいました。
先にご案内したとおり、これは日本教育公務員弘済会埼玉支部というところが公募した生涯学習実践作文で、優秀賞を受賞したその記念講演というのが建前でした。
昨年、PTA役員として県PTA連合会の定期総会に出席した折、前年分の受賞作品を集めた作文集を配布してもらって読んで面白いなと思ったのですが、その際に次のテーマが「東日本他大震災に学ぶ」であると知りました。たいした活動はしていなくても、今回の震災で学んだこと、被災地の皆さんや他のボランティアの皆さんから教わった事だけはたくさんあります。
そうした事の中には、自分の中だけに留めておくにはあまりに惜しいものが多く、当時娘の通っていた中学校でも講演会を開催して頂き、話をする機会を得ました。その時の中学生たちの反応には目を見張るものがあり、そんな風に役に立つことがあるのなら出来るだけ報告していきたいと思ったものでした。
受賞作品の中でも、今回の講演の中でも、特に大切だと考えて繰り返したのはテーマにもある「新しい日常」~新しいシステム、新しいルール、新しい価値観といったことでした。
「古い日常」があの巨大な災厄のために否応なしに崩れ去りました。
そこから先の急場をしのいでいくのに、従来の価値観や約束事に捕らわれていたのでは何事も進まず、時には人の生死にすら関わるため、被災地の皆さんやそこで活動する方たちは柔軟に、臨機応変に対応してきました。縦割り行政の横の壁を壊し、手続きや書類の作成が対応を遅らせると分かればそれを省略しました。
それは教育現場でも顕著でした。そうでなければわれわれが中学校に資材を集積したり、校内にいろいろな人を集めて寄せ植えを製作することは出来なかったろうし、その製作に中学生たちを動員したりすることは出来なかったと思います。中学校は様々な支援活動の拠点となり、その中で様々な人たちと接して学習することによって、中学生たちも大きく成長しました。
震災の年、われわれがお世話になった中学校では5月に予定されていた3年生の修学旅行を実施することが出来ませんでした。当時中学校はまだ避難所となっており、生徒の中にはそこで暮らす者も多く、正常な学習環境が整っている筈がありませんでした。本来であれば断念したまままで卒業を迎えるしかなかった彼らに、しかし学校は10月、やり直しの修学旅行をプレゼントしました。2泊3日の東京への修学旅行です。
その中で彼らが何をしたかといえば、まず、地元の農家や役場から贈られたリンゴや野菜や米を新橋駅と有楽町の街頭に立って、町の様子を訴えながら販売しました。そしてその収益を町に寄付しました。さらに都内から支援に来てくれた先生の所属校を訪問してお礼をし、交流会を開きました。その上で上野公園、中華街、ディズニーランド、日光にまで出掛けているのです。
平常時の教育環境では絶対に出来ないことです。様々な条件がそれを許さず、仮に許されたとしても教師にも生徒にも、それをこなすだけの力量が果たして有るかどうか…
被災地では生徒さんたちはもとより、先生方も大きく成長されました。いや、成長していかなければ教育の場すら失いかねなかったのです。
それを被災地だから…その一言で片付け、忘れ去ってしまって良いのでしょうか。
被災地に、好むと好まざるとに関わらず生み出された新しい価値、そこから派生した新しい日常。
それが物事の本質により近く、何が一番大切なのかを常に意識するものであるなら、われわれはそのことを被災地から学んで、もっと自分たちを成長させる糧にすることはできないでしょうか。
ただ今回の作文中でも取り上げたのですが、その震災一年後の時点で少しずつ秩序は回復しつつありました。そんな中、回復した秩序のためにかえって不自由になったと嘆く、被災地の方の声をわたしは紹介したのですが、そのようにしてそれを、束の間の徒花にしてしまうのか否か…そのような厳しい課題を被災地の方が自らに課そうとしていたのが、とても衝撃的でした。
そしてさらに震災から2年。
今も被災地の多くでは、柔軟な姿勢で、もっとも大切な事を優先して進めようとする人々の姿が見られます。
しかしそれとまったく同じくらいの割合で、効率的に進められようとしている復興の中で、取り残されつつある人々がいます。
だから被災地と被災地の人々から決して目をそらしてはいけない、忘れてはいけないと思います。
それは単に被災地を支援していくためだけではなく、実は勝手ながらわれわれ自身のため…日本人が日本人として生きていくためであり、この日本という国をきちんとした形で再生していくためでもあると思うからです。
その事をわたしは作品の主題にし、この講演会のテーマとして掲げました。
日本教育公務員弘済会ですから、受賞した作品の読者の多くは教育の現場に身を置く、それもそこそこの立場の方たちだと思いました。そんな方たちに伝われば良いと思い、それこそその為には受賞するしかないと、かなり気合いを入れて書き込んだ文章でした。
被災地の学校が軽々とやってのけることが、どうして何の障害もない学校でできないのか…
だれがそんな息苦しいだけの状況を教育の現場に生み出しているのか…
果たして上手くそれが伝わっていくでしょうか。
今回の講演会には現役の教員の方が何人か来て下さっていました。
かつて教員をされていた方もいました。
少なくとも、そうした方たちにはきちんと理解してもらえたという手応えがありました。
話を聞けて良かったと言って下さった方もいました。
ありがたいと思いました。
いろいろな方に支えられて、今回の講演会は終了することが出来ました。
NPO法人しゃぼん玉の会の吉村さん、五井さん。
この日のために美味しい甘夏を送ってくれたガイアみなまたの黒田さん。
突然の案内に駆けつけてくれた中学時代の恩師である竹内先生。
庭仲間の上さんご夫妻。花を贈って下さった矢島さん。
講演会の様子をいっぱい写真に記録してくれ、わざわざ丁寧な手紙を添えたCDにして届けてくれた森昭彦さん。
忙しい中、わたしの拙い話を聞くために貴重な時間を割いてくださったひとりひとりの皆さん。
改めて心から感謝いたします。
雨の日にも関わらず様々な分野で活躍されている皆さんが16名、集まって下さいました。
先にご案内したとおり、これは日本教育公務員弘済会埼玉支部というところが公募した生涯学習実践作文で、優秀賞を受賞したその記念講演というのが建前でした。
昨年、PTA役員として県PTA連合会の定期総会に出席した折、前年分の受賞作品を集めた作文集を配布してもらって読んで面白いなと思ったのですが、その際に次のテーマが「東日本他大震災に学ぶ」であると知りました。たいした活動はしていなくても、今回の震災で学んだこと、被災地の皆さんや他のボランティアの皆さんから教わった事だけはたくさんあります。
そうした事の中には、自分の中だけに留めておくにはあまりに惜しいものが多く、当時娘の通っていた中学校でも講演会を開催して頂き、話をする機会を得ました。その時の中学生たちの反応には目を見張るものがあり、そんな風に役に立つことがあるのなら出来るだけ報告していきたいと思ったものでした。
受賞作品の中でも、今回の講演の中でも、特に大切だと考えて繰り返したのはテーマにもある「新しい日常」~新しいシステム、新しいルール、新しい価値観といったことでした。
「古い日常」があの巨大な災厄のために否応なしに崩れ去りました。
そこから先の急場をしのいでいくのに、従来の価値観や約束事に捕らわれていたのでは何事も進まず、時には人の生死にすら関わるため、被災地の皆さんやそこで活動する方たちは柔軟に、臨機応変に対応してきました。縦割り行政の横の壁を壊し、手続きや書類の作成が対応を遅らせると分かればそれを省略しました。
それは教育現場でも顕著でした。そうでなければわれわれが中学校に資材を集積したり、校内にいろいろな人を集めて寄せ植えを製作することは出来なかったろうし、その製作に中学生たちを動員したりすることは出来なかったと思います。中学校は様々な支援活動の拠点となり、その中で様々な人たちと接して学習することによって、中学生たちも大きく成長しました。
震災の年、われわれがお世話になった中学校では5月に予定されていた3年生の修学旅行を実施することが出来ませんでした。当時中学校はまだ避難所となっており、生徒の中にはそこで暮らす者も多く、正常な学習環境が整っている筈がありませんでした。本来であれば断念したまままで卒業を迎えるしかなかった彼らに、しかし学校は10月、やり直しの修学旅行をプレゼントしました。2泊3日の東京への修学旅行です。
その中で彼らが何をしたかといえば、まず、地元の農家や役場から贈られたリンゴや野菜や米を新橋駅と有楽町の街頭に立って、町の様子を訴えながら販売しました。そしてその収益を町に寄付しました。さらに都内から支援に来てくれた先生の所属校を訪問してお礼をし、交流会を開きました。その上で上野公園、中華街、ディズニーランド、日光にまで出掛けているのです。
平常時の教育環境では絶対に出来ないことです。様々な条件がそれを許さず、仮に許されたとしても教師にも生徒にも、それをこなすだけの力量が果たして有るかどうか…
被災地では生徒さんたちはもとより、先生方も大きく成長されました。いや、成長していかなければ教育の場すら失いかねなかったのです。
それを被災地だから…その一言で片付け、忘れ去ってしまって良いのでしょうか。
被災地に、好むと好まざるとに関わらず生み出された新しい価値、そこから派生した新しい日常。
それが物事の本質により近く、何が一番大切なのかを常に意識するものであるなら、われわれはそのことを被災地から学んで、もっと自分たちを成長させる糧にすることはできないでしょうか。
ただ今回の作文中でも取り上げたのですが、その震災一年後の時点で少しずつ秩序は回復しつつありました。そんな中、回復した秩序のためにかえって不自由になったと嘆く、被災地の方の声をわたしは紹介したのですが、そのようにしてそれを、束の間の徒花にしてしまうのか否か…そのような厳しい課題を被災地の方が自らに課そうとしていたのが、とても衝撃的でした。
そしてさらに震災から2年。
今も被災地の多くでは、柔軟な姿勢で、もっとも大切な事を優先して進めようとする人々の姿が見られます。
しかしそれとまったく同じくらいの割合で、効率的に進められようとしている復興の中で、取り残されつつある人々がいます。
だから被災地と被災地の人々から決して目をそらしてはいけない、忘れてはいけないと思います。
それは単に被災地を支援していくためだけではなく、実は勝手ながらわれわれ自身のため…日本人が日本人として生きていくためであり、この日本という国をきちんとした形で再生していくためでもあると思うからです。
その事をわたしは作品の主題にし、この講演会のテーマとして掲げました。
日本教育公務員弘済会ですから、受賞した作品の読者の多くは教育の現場に身を置く、それもそこそこの立場の方たちだと思いました。そんな方たちに伝われば良いと思い、それこそその為には受賞するしかないと、かなり気合いを入れて書き込んだ文章でした。
被災地の学校が軽々とやってのけることが、どうして何の障害もない学校でできないのか…
だれがそんな息苦しいだけの状況を教育の現場に生み出しているのか…
果たして上手くそれが伝わっていくでしょうか。
今回の講演会には現役の教員の方が何人か来て下さっていました。
かつて教員をされていた方もいました。
少なくとも、そうした方たちにはきちんと理解してもらえたという手応えがありました。
話を聞けて良かったと言って下さった方もいました。
ありがたいと思いました。
いろいろな方に支えられて、今回の講演会は終了することが出来ました。
NPO法人しゃぼん玉の会の吉村さん、五井さん。
この日のために美味しい甘夏を送ってくれたガイアみなまたの黒田さん。
突然の案内に駆けつけてくれた中学時代の恩師である竹内先生。
庭仲間の上さんご夫妻。花を贈って下さった矢島さん。
講演会の様子をいっぱい写真に記録してくれ、わざわざ丁寧な手紙を添えたCDにして届けてくれた森昭彦さん。
忙しい中、わたしの拙い話を聞くために貴重な時間を割いてくださったひとりひとりの皆さん。
改めて心から感謝いたします。
講演会のお知らせ
テーマ:東日本大震災復興
2013/03/27 04:19
お知らせしておきます。
昨年夏、子どもたちの手でソーラーパネルを製作し、それを東日本大震災の被災地のひとつである石巻に設置するという活動をした、「NPO法人しゃぼん玉の会」が講演会を開催してくれることになりました。
昨年、日本教育公務員弘済会埼玉支部というところで公募した生涯学習実践作文「私の実践~東日本大震災に学ぶ~」に応募したわたしの文章が、優秀賞を受賞したことを喜んでくれた友人たちの心遣いです。
講演会というのもおこがましいので、これまでの被災地での活動を写真で紹介しながら、皆さんといろいろお話しできたらと思っています。
日時は、2013年3月30日(土)10:00〜11:30
場所:鴻巣市吹上コスモスアリーナ 2階の講習室
会費:無料
参加はどなたでも自由みたいなので、よろしかったらご参加下さい。
なお、「NPO法人しゃぼん玉の会」は不登校の子どもを持つ親たちのネットワークです。
時々はわたしもそのキャンプなどに参加させていただいていますが、なかなか素敵な活動をされております。
ぜひとも一度、こちらをご覧下さい。