被災地に寄せ植えを届ける~皆野中学PTAと生徒会のとりくみ、この一年
テーマ:東日本大震災復興
2013/03/08 16:45
すでにひとり娘が卒業してしまった中学校のPTAに、引き続き役員として留任、というか留年してしまったのは、文字通りわたしが至らなかったからに他なりませんが、それでもやる以上は徹底的にやろうと思えたのはちょうど今から一年前、生徒会の役員諸君との交流を持ったときから始まります。
彼ら生徒会は2011年の東日本大震災直後に申し合わせたようにして立ち上がり、3日間で26万余りの募金を集めて被災地に送りました。先生や父兄の協力があったとは言え、子どもたちが自力で集めた額としてはとても大きかったと思います。
それから一年たった昨年の3月、生徒会とPTAとが交流しながら何らかの事業を始めようという段になって彼らが口を揃えるようにして希望したのが、もう一度被災地のために募金活動をしたいということでした。
前年から宮城県の山元町に通い、花を使った支援活動に参加していたわたしからの、それこそ目に見えない圧力が無かったとは否定しきれないのですが、それでもついつい胸が熱くなるのを感じてしまいました。
でもそこでわたしが彼らにお願いしたのは少し違うことでした。
もちろん募金という形の支援活動があってもよいと思うし大切なことだと感じている。でも震災から1年が経過して被災地のニーズはすごく多様化していると思う。どのように使われるか分からない義援金より、もっと具体的でもっと心のこもった、しかも届ける相手の顔がはっきりと見える支援活動をしてみないか…
実のところ、彼らにはもっと直接的に被災地の姿を知ってもらいたいというのがわたしの願いでした。
が、それはそれとして苦労だけの支援活動ではなく、自分たち自身も楽しめるような手応えのある支援活動でなければ、長く継続させることはできないというのが、僅かばかりの被災地での活動で、わたし自身が学んだことだったのです。
時期を改め開催した別の交流会において、話し合いの結果、彼らが選んだのはチャリティーバザーでした。
小学校時代、子ども会やPTA活動で親たちが開催したバザーを経験した子どももいましたが、中学校としては初めての試みでした。
実際に運営するのはPTAですが、子どもたちもPRして友だちを誘ったり、当日は売子をつとめたりと、共同開催という形にして、それはとても画期的なものとなりました。
とは言うものの、何せ初めての試み。
しかも時期的に夏休みの始めということもあって会場である体育館はとても暑く、広報不足もたたってお客さんも少なく…
けっして大盛況とはいきませんでしたが、手作りのミサンガを売ってくれた子どもがいて、わたしも山元町の仮設住宅で手作りされたストラップを売り、僅かながら 44,000円ほどの収益を上げることが出来ました。
何よりもたくさんの品物を提供してくれた父兄の皆さんの気持ちが、とてもありがたく感じました。
やると決めた以上は徹底してやろうと、同じく夏休み中の行事として予定されていたPTAと中学後援会も通常の夜の料理屋さんではなく(まあ、わたしが苦手ということもありますが)、昼間のキャンプ場でバーベキュー大会をすることにして、その余剰金もチャリティーに充てました。
また、秋のPTA研修旅行。
これも本当は福島あたりまで足を伸ばしたかったのですが、日程の関係でそうもいかず…
横浜でしたが、その代わりに会費の残金をチャリティーに回してもらいました。
そのようにして集まった収益金をどのようにして活用するか、これもまた交流会を開催して子どもたちの意見を聞きました。
花の種と土を買って花を育て、お世話になった地元の人たちや被災地に届けよう。
これもほぼ満場一致で決まりました。
地元の、花の生産者さんの協力もあり、種よりも確実に大きく育てられるプラグ苗を大量に調達してもらい、10月にこれをポットに移植。これは3年生が行いました。
4,000ポットのパンジーたちです。
厳しい冬を迎えるにあたってポット苗の管理が難しいと言うことで、それを花壇に定植。
これも3年生と1年生の一部がやってくれました。12月のことでした。
一方親たちは親たちで…
文化祭の受付のみなさんに手伝ってもらい、球根と土を配布。
各家庭ごとに育ててもらったものを、3月に学校まで届けて下さい。
チューリップとスイセン、クロッカスの球根がおよそ130球ほど父兄に託されました。
今年はそれだけでなく、放課後の学校に親と子どもと教師とが集まって、一緒にいろいろと勉強しようという新しい企画も始めました。
題して「皆中おとなも子どもも学ぶ会」。
山元町の「子どももおとなもみんなで遊び隊」と少し似ていますが…偶然です。
第1回めは昨年10月、「おとなと子どものいのちの勉強会『釜石の奇跡』から学ぼう」と題し、釜石の実際の事例をDVDで鑑賞した後、わたしが座長になって各家庭それぞれの防災対策、学校の防災に対する姿勢、地元で考え得る災害などについて話し合いました。
第2回は今年1月。「おとなと子どものいのちの勉強会 携帯電話とインターネットについて考えよう」。
埼玉県からネットアドバイザーの方を派遣してもらい、やはりDVDを使ったり、プロジェクターを使いながらネット社会の怖さ、子どもたちのすぐ側に潜んでいる危険、その中でどうやって子どもたちを守っていけば良いか、勉強しました。
そして、その「皆中おとなも子どもも学ぶ会」第3回目が、明日開催される「花の寄せ植えをつくって届けよう」という寄せ植え教室と花いっぱい活動です。
球根が果たしてどれだけ戻ってくるかという心配がまったく無かった訳ではありませんが、なんと昨夜の時点で132ポット、つまりはほぼすべての鉢が大切に育てられた上で元気に戻ってきていました。
これに花壇に植えられて冬を越したパンジーたちを加えて寄せ植えにし、100鉢の寄せ植えを子どもたちと若干のおとなたちとで製作する予定です。
そして出来上がったうちの50鉢を、地元でこれまでお世話になった幼稚園や保育園、小学校、郵便局、駅、役所、老人ホームなどに配布して廻ります。これらの配布先はみんな子どもたちが考え、メッセージも作成してあります。
そして残る50鉢を、わたしたちが山元町に届けます。
先日先方にその届け先の相談をしたところ、まずは3月11日に行われる町の追悼式の会場で飾ってくれるとのこと。その後で様々な場所に配られていくそうです。
昨年3月にスタートした今回の一連の事業が一年を経てようやく明日結実する訳ですが、その報告は山元町から戻ってからにしたいと思います。
震災から間もなく2年。
苦労を重ねてこられた被災地の皆さんに心から敬意を表し、改めて共に歩んでいくことを決意したいと思います。
彼ら生徒会は2011年の東日本大震災直後に申し合わせたようにして立ち上がり、3日間で26万余りの募金を集めて被災地に送りました。先生や父兄の協力があったとは言え、子どもたちが自力で集めた額としてはとても大きかったと思います。
それから一年たった昨年の3月、生徒会とPTAとが交流しながら何らかの事業を始めようという段になって彼らが口を揃えるようにして希望したのが、もう一度被災地のために募金活動をしたいということでした。
前年から宮城県の山元町に通い、花を使った支援活動に参加していたわたしからの、それこそ目に見えない圧力が無かったとは否定しきれないのですが、それでもついつい胸が熱くなるのを感じてしまいました。
でもそこでわたしが彼らにお願いしたのは少し違うことでした。
もちろん募金という形の支援活動があってもよいと思うし大切なことだと感じている。でも震災から1年が経過して被災地のニーズはすごく多様化していると思う。どのように使われるか分からない義援金より、もっと具体的でもっと心のこもった、しかも届ける相手の顔がはっきりと見える支援活動をしてみないか…
実のところ、彼らにはもっと直接的に被災地の姿を知ってもらいたいというのがわたしの願いでした。
が、それはそれとして苦労だけの支援活動ではなく、自分たち自身も楽しめるような手応えのある支援活動でなければ、長く継続させることはできないというのが、僅かばかりの被災地での活動で、わたし自身が学んだことだったのです。
時期を改め開催した別の交流会において、話し合いの結果、彼らが選んだのはチャリティーバザーでした。
小学校時代、子ども会やPTA活動で親たちが開催したバザーを経験した子どももいましたが、中学校としては初めての試みでした。
実際に運営するのはPTAですが、子どもたちもPRして友だちを誘ったり、当日は売子をつとめたりと、共同開催という形にして、それはとても画期的なものとなりました。
とは言うものの、何せ初めての試み。
しかも時期的に夏休みの始めということもあって会場である体育館はとても暑く、広報不足もたたってお客さんも少なく…
けっして大盛況とはいきませんでしたが、手作りのミサンガを売ってくれた子どもがいて、わたしも山元町の仮設住宅で手作りされたストラップを売り、僅かながら 44,000円ほどの収益を上げることが出来ました。
何よりもたくさんの品物を提供してくれた父兄の皆さんの気持ちが、とてもありがたく感じました。
やると決めた以上は徹底してやろうと、同じく夏休み中の行事として予定されていたPTAと中学後援会も通常の夜の料理屋さんではなく(まあ、わたしが苦手ということもありますが)、昼間のキャンプ場でバーベキュー大会をすることにして、その余剰金もチャリティーに充てました。
また、秋のPTA研修旅行。
これも本当は福島あたりまで足を伸ばしたかったのですが、日程の関係でそうもいかず…
横浜でしたが、その代わりに会費の残金をチャリティーに回してもらいました。
そのようにして集まった収益金をどのようにして活用するか、これもまた交流会を開催して子どもたちの意見を聞きました。
花の種と土を買って花を育て、お世話になった地元の人たちや被災地に届けよう。
これもほぼ満場一致で決まりました。
地元の、花の生産者さんの協力もあり、種よりも確実に大きく育てられるプラグ苗を大量に調達してもらい、10月にこれをポットに移植。これは3年生が行いました。
4,000ポットのパンジーたちです。
厳しい冬を迎えるにあたってポット苗の管理が難しいと言うことで、それを花壇に定植。
これも3年生と1年生の一部がやってくれました。12月のことでした。
一方親たちは親たちで…
文化祭の受付のみなさんに手伝ってもらい、球根と土を配布。
各家庭ごとに育ててもらったものを、3月に学校まで届けて下さい。
チューリップとスイセン、クロッカスの球根がおよそ130球ほど父兄に託されました。
今年はそれだけでなく、放課後の学校に親と子どもと教師とが集まって、一緒にいろいろと勉強しようという新しい企画も始めました。
題して「皆中おとなも子どもも学ぶ会」。
山元町の「子どももおとなもみんなで遊び隊」と少し似ていますが…偶然です。
第1回めは昨年10月、「おとなと子どものいのちの勉強会『釜石の奇跡』から学ぼう」と題し、釜石の実際の事例をDVDで鑑賞した後、わたしが座長になって各家庭それぞれの防災対策、学校の防災に対する姿勢、地元で考え得る災害などについて話し合いました。
第2回は今年1月。「おとなと子どものいのちの勉強会 携帯電話とインターネットについて考えよう」。
埼玉県からネットアドバイザーの方を派遣してもらい、やはりDVDを使ったり、プロジェクターを使いながらネット社会の怖さ、子どもたちのすぐ側に潜んでいる危険、その中でどうやって子どもたちを守っていけば良いか、勉強しました。
そして、その「皆中おとなも子どもも学ぶ会」第3回目が、明日開催される「花の寄せ植えをつくって届けよう」という寄せ植え教室と花いっぱい活動です。
球根が果たしてどれだけ戻ってくるかという心配がまったく無かった訳ではありませんが、なんと昨夜の時点で132ポット、つまりはほぼすべての鉢が大切に育てられた上で元気に戻ってきていました。
これに花壇に植えられて冬を越したパンジーたちを加えて寄せ植えにし、100鉢の寄せ植えを子どもたちと若干のおとなたちとで製作する予定です。
そして出来上がったうちの50鉢を、地元でこれまでお世話になった幼稚園や保育園、小学校、郵便局、駅、役所、老人ホームなどに配布して廻ります。これらの配布先はみんな子どもたちが考え、メッセージも作成してあります。
そして残る50鉢を、わたしたちが山元町に届けます。
先日先方にその届け先の相談をしたところ、まずは3月11日に行われる町の追悼式の会場で飾ってくれるとのこと。その後で様々な場所に配られていくそうです。
昨年3月にスタートした今回の一連の事業が一年を経てようやく明日結実する訳ですが、その報告は山元町から戻ってからにしたいと思います。
震災から間もなく2年。
苦労を重ねてこられた被災地の皆さんに心から敬意を表し、改めて共に歩んでいくことを決意したいと思います。
「この町で」 山元町の歌を作り隊のみなさまへ
テーマ:東日本大震災復興
2012/11/12 22:58
CDが届きました。
ありがとうございました!
その後なんどもなんども繰り返し聴かせていただいております。
なるほど、吟味に吟味を重ねた、というのが伝わってくる仕上がりでした。
さぞやご苦労も多かったことでしょう。
とても素敵な仕上がりだと思います。
メインボーカルの声の美しさはもちろんのこと!、一人一人の声がとても生きていて、編曲とか演出とか構成とか、そのひとつひとつに意味を感じます。
曲全体が歌詞以外でも強烈なメッセージを発しているのですね。
そのメッセージに圧倒されますし、なにぶんにも曲そのものがとても美しいメロディーとすばらしい歌詞を持っているので、8月のお披露目の時に感じたのと同じ感動が今も持続しています。一緒に歌っていてわたしなど未だに途中で声を詰まらせてしまいますが、みなさんも最初のうちはきっとそうだったのだろうなと、勝手ながら想像しているところです。
どうもありがとうございました。
わたしなどのために貴重な1枚を届けて頂きました。
20日の再プレス後、少し落ち着いてからで結構ですので、お願いした20枚をお届け下さい。
送金先をお知らせ頂ければ送りますし、送料が分からなければ発送後でも、あるいは着払いでも結構です。自宅にはいつも両親がおりますので。
どうかよろしくお願いいたします。
まずは17日の鎮魂祭ですね。
いずれ冬前のメンテナンスに行きたかったので17日に行ければ良かったのですが、残念ながら娘の学校行事と重なってしまいました。
どうか皆さまにはくれぐれもよろしくお伝え下さい。近いうちにまた、伺います。
そして鎮魂祭の成功を心からお祈りしております。
ありがとうございました。
山元町からCDになった「この町で」が届けられました。
以前にも紹介したとおり、とても素敵な歌です。
You Tube でも動画が公開されていますが、その後ずいぶん丁寧に手が加えられていることに驚きました。
少しでも多くの方に聴いて頂きたく、紹介させていただきました。
詳しくは山元町 子どもも大人もみんなで遊び隊のHPをご覧になって下さい。
You Tubeの動画はこちらです。
荒浜の海岸にて
テーマ:東日本大震災復興
2012/08/29 22:55
以下、心の整理のために。
仙台荒浜の海岸で見たこの立て札。
津波によってふるさとを奪われたこの土地の方たちは、災害危険区域に指定されたことでそのふるさとを取り戻す機会を永遠に失おうとしている…
暮らしと共に歴史や文化まで失ってしまうという危機感。
…ここにもまた再生に向けた険しい道のりがあります。
その荒浜の、荒廃した海水浴場を見学した際のこと。
地元の人らしい、小さな男のお子さんを連れた若いお父さんに声を掛けられました。
「関東から来て、みなさん興味本位で写真を撮っているんですかね」
どうやらわれわれのグループのことを言っておられる様子。
確かに大型バスから大勢で海岸に降り立てば、そのように思われても仕方ないかなと思いつつ事情を説明し、
「今あそこでリーダーの男が、この場所でどのような事があったのか、みんなに詳しく説明しています。わたしたちはそのように、この震災の実態を少しでも正しく知りたいと思っていて、周りの人たちにも伝えたいと思っていて…そういうつもりで写真も撮っているのですが」
とても疲れ果てた目をした男性は、それでもとても懐疑的で、
「でもやっぱり…複雑なんですよね。みなさん本当にここで被災した地元の人たちの気持ちを、どれだけ分かってるのかなってね」
わたしは、たとえ興味本位でも物見遊山でも、観光でも遊びでも、少しでも多くの人が被災地を訪れるべきだと思っている。
何よりも今大切なのは、日本人がこの被災地のことを忘れないこと。気にかけ続けること。痛みを感じ続けること。被災した方たちに、間違っても自分たちが忘れ去られようとしているなんて感じさせてはならないということ。
でも、目の前の男性にそんなことを言っても何の意味もないのは明白でした。
彼が今、ここで少なからず傷つけられている事実に変わりはないのだから。
でも一方で再生を願い、その為の力を貸してほしいと願う地元の方も多く居るわけで、われわれが今迷ったり躊躇ったりすることは違うのだと思います。
ただ、傷つく人があるならその人から決して目をそらしてはいけないだろう…
そう思ってわたしはずっとその男性の話を聞き続けました。
そういえば山元町の被災地の中心、坂元駅で土を運んだり花の種を蒔いていた時も、多くのクルマがやってきてはわれわれの姿を見てそのままUターンして去って行くという場面に何度か逢いました。
いや、そうじゃなくて…出来ればここに降りたって被災地を目に焼き付けてほしい、われわれに話しかけて一緒にこの町の過去と未来に関する話をしてほしい。何度となくそのように願いましたが、わたし自身の最初の頃を思えば、その気持ちもよく分かります。
被災地にカメラを向けることを罪深く感じ、その中でクルマを走らせることに後ろめたさを感じたものでした。
地元のみなさんと知り合い、言葉を交わすうちにそうした意識は徐々に払拭することが出来ましたが…
受け止められる地元の皆さんもまた、いろいろな視点を持っておられるわけで…
荒浜海岸の男性の言う「複雑な気持ち」というのが本当のところなのでしょう。
閖上中学校の献花台のそばに置かれた机。
そこに記されたメッセージを忘れてはいけないと思います。
あの日大勢の人達が津波から逃れる為、この閖中を目指して走りました。
街の復興はとても大切な事です。
でも沢山の人達の命が今もここにある事を忘れないでほしい。
死んだら終わりですか?
生き残った私達に出来る事を考えます。
閖上中の大切な大切な仲間14人が
やすらかな眠りにつける様祈っています。
津波は忘れても14人を忘れないでいてほしい。
いつも一緒だよ
それはそれほど難しいことでは無いでしょう。
別にボランティアなどと気負い込むことも無いと思います。
ずっと忘れないでい続けること。
気にかけ続けること。
同じ痛みを感じ続けること。
その為には何度も繰り返しそこを訪れて、地元の方と言葉を交わし続ければ良いのだと思います。
いえ、離れていても良いでしょう。
とにかく、忘れないこと。覚えていること。
日本はあの日以来しばらくの間、何もかも放り投げるようにして東日本の被災地と寄り添いました。
それが今慌てて、まるでその時のロスを取り戻すかのような勢いで前に進もうとしています。
それはそれで良いのかも知れない。みんなで途方に暮れているばかりでは、永遠に被災地の復興はないでしょうから。
でも、そのように日本人全体が、被災地の一部の人たちも含めて一斉に前を向いてしまったら、後に取り残されるよりない人たちはどうなるのでしょうか?
福島の方たちの痛みをまるで無視して経済性だけを優先するかのように大飯原発を再稼働したり、それがどれだけ被災地の経済を疲弊させるかという議論を持つこともなく消費税増税を決めたり…
わたしは取り残されてしまう人が大勢いるうちは、何も慌てて先に進むことは無いだろうと考えます。
もっとみんなで一緒に不自由を味わってもいい。
そう思ったから、この一ヶ月の間、自分の経済活動をあえて停止しました。というより、停止しない訳にはいかない心情になってしまいました。あまりにもみんなが揃って先へ先へと歩き出してしまったから…
とまあ、そういう心の整理をしないことにはなかなか社会復帰が出来ずに居る自分がいたものですから…
さて。
少しは前に進んでいきましょう。
後ろをふり返りふり返り…
いや。
そちら側が本当に後ろなのかといつも気に掛けながら、自分の前だと信じる方角をいつでも疑いながら…
仙台荒浜の海岸で見たこの立て札。
津波によってふるさとを奪われたこの土地の方たちは、災害危険区域に指定されたことでそのふるさとを取り戻す機会を永遠に失おうとしている…
暮らしと共に歴史や文化まで失ってしまうという危機感。
…ここにもまた再生に向けた険しい道のりがあります。
その荒浜の、荒廃した海水浴場を見学した際のこと。
地元の人らしい、小さな男のお子さんを連れた若いお父さんに声を掛けられました。
「関東から来て、みなさん興味本位で写真を撮っているんですかね」
どうやらわれわれのグループのことを言っておられる様子。
確かに大型バスから大勢で海岸に降り立てば、そのように思われても仕方ないかなと思いつつ事情を説明し、
「今あそこでリーダーの男が、この場所でどのような事があったのか、みんなに詳しく説明しています。わたしたちはそのように、この震災の実態を少しでも正しく知りたいと思っていて、周りの人たちにも伝えたいと思っていて…そういうつもりで写真も撮っているのですが」
とても疲れ果てた目をした男性は、それでもとても懐疑的で、
「でもやっぱり…複雑なんですよね。みなさん本当にここで被災した地元の人たちの気持ちを、どれだけ分かってるのかなってね」
わたしは、たとえ興味本位でも物見遊山でも、観光でも遊びでも、少しでも多くの人が被災地を訪れるべきだと思っている。
何よりも今大切なのは、日本人がこの被災地のことを忘れないこと。気にかけ続けること。痛みを感じ続けること。被災した方たちに、間違っても自分たちが忘れ去られようとしているなんて感じさせてはならないということ。
でも、目の前の男性にそんなことを言っても何の意味もないのは明白でした。
彼が今、ここで少なからず傷つけられている事実に変わりはないのだから。
でも一方で再生を願い、その為の力を貸してほしいと願う地元の方も多く居るわけで、われわれが今迷ったり躊躇ったりすることは違うのだと思います。
ただ、傷つく人があるならその人から決して目をそらしてはいけないだろう…
そう思ってわたしはずっとその男性の話を聞き続けました。
そういえば山元町の被災地の中心、坂元駅で土を運んだり花の種を蒔いていた時も、多くのクルマがやってきてはわれわれの姿を見てそのままUターンして去って行くという場面に何度か逢いました。
いや、そうじゃなくて…出来ればここに降りたって被災地を目に焼き付けてほしい、われわれに話しかけて一緒にこの町の過去と未来に関する話をしてほしい。何度となくそのように願いましたが、わたし自身の最初の頃を思えば、その気持ちもよく分かります。
被災地にカメラを向けることを罪深く感じ、その中でクルマを走らせることに後ろめたさを感じたものでした。
地元のみなさんと知り合い、言葉を交わすうちにそうした意識は徐々に払拭することが出来ましたが…
受け止められる地元の皆さんもまた、いろいろな視点を持っておられるわけで…
荒浜海岸の男性の言う「複雑な気持ち」というのが本当のところなのでしょう。
閖上中学校の献花台のそばに置かれた机。
そこに記されたメッセージを忘れてはいけないと思います。
あの日大勢の人達が津波から逃れる為、この閖中を目指して走りました。
街の復興はとても大切な事です。
でも沢山の人達の命が今もここにある事を忘れないでほしい。
死んだら終わりですか?
生き残った私達に出来る事を考えます。
閖上中の大切な大切な仲間14人が
やすらかな眠りにつける様祈っています。
津波は忘れても14人を忘れないでいてほしい。
いつも一緒だよ
それはそれほど難しいことでは無いでしょう。
別にボランティアなどと気負い込むことも無いと思います。
ずっと忘れないでい続けること。
気にかけ続けること。
同じ痛みを感じ続けること。
その為には何度も繰り返しそこを訪れて、地元の方と言葉を交わし続ければ良いのだと思います。
いえ、離れていても良いでしょう。
とにかく、忘れないこと。覚えていること。
日本はあの日以来しばらくの間、何もかも放り投げるようにして東日本の被災地と寄り添いました。
それが今慌てて、まるでその時のロスを取り戻すかのような勢いで前に進もうとしています。
それはそれで良いのかも知れない。みんなで途方に暮れているばかりでは、永遠に被災地の復興はないでしょうから。
でも、そのように日本人全体が、被災地の一部の人たちも含めて一斉に前を向いてしまったら、後に取り残されるよりない人たちはどうなるのでしょうか?
福島の方たちの痛みをまるで無視して経済性だけを優先するかのように大飯原発を再稼働したり、それがどれだけ被災地の経済を疲弊させるかという議論を持つこともなく消費税増税を決めたり…
わたしは取り残されてしまう人が大勢いるうちは、何も慌てて先に進むことは無いだろうと考えます。
もっとみんなで一緒に不自由を味わってもいい。
そう思ったから、この一ヶ月の間、自分の経済活動をあえて停止しました。というより、停止しない訳にはいかない心情になってしまいました。あまりにもみんなが揃って先へ先へと歩き出してしまったから…
とまあ、そういう心の整理をしないことにはなかなか社会復帰が出来ずに居る自分がいたものですから…
さて。
少しは前に進んでいきましょう。
後ろをふり返りふり返り…
いや。
そちら側が本当に後ろなのかといつも気に掛けながら、自分の前だと信じる方角をいつでも疑いながら…