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ヤマザクラ~慰霊登山

テーマ:思い
例年は年末か年始に娘と出かけていた、恒例の慰霊登山…

昨年末は病気が重って行けなかったので、いっそヤマザクラの季節にと思って予定していたのが今月半ばの週末でした。
が、それも手の手術の為に一週間遅れとなってしまいました。

でも、おかげで天気には恵まれたかな?

ヤマザクラ01

さすがに、先日の雨もあってヤマザクラの多くはすでに散り始めていました。

ヤマザクラ03

花びらが敷き詰められた山道は早朝だけに人も少なく、存分にその風情を味わうことが出来ました。

花びらの道


さて、どうして慰霊登山なのかというと…

やまなみ

「もしわたしが先に死んだら、墓には入れないで散骨にしてほしい」というのが、亡くなるずっと前からの家内の遺言でした。
葬式も挙げない、僧侶も呼ばず読経もせず、できれば人も呼ばずに身内だけで見送って欲しい。

頑固で個性的な家内であったし、わたしもそれにはやや劣るものの頑固で個性的でしたので、結婚してすぐに墓を作らないことを申し合わせ、死後の処理についてもそのように取り決めていました。
価値観のかなり違う夫婦でしたが、そのことだけは不思議と考えが一致していました。
わたしの葬儀や墓に関する考え方はインドで暮らしたときに生まれたものが多いのですが、家内の場合、それがどこから来たものなのか、今となれば正確に語ることは出来ません。
ただ、田舎の旧い家に生まれ、長女として家長制度をたたき込まれた彼女なりの、したたかな抵抗であったのかもしれません。

そして、彼女が亡くなったとき、わたしは周囲の意向を一切無視して、彼女の遺志だけを忠実に実行しました。
葬儀は挙げず、僧侶を呼ばず、彼女の身内とわたしたち家族だけで彼女を荼毘に付しました。
義理の兄は、
「俺にはとても理解できないことだけど、お前の好きなようにやってくれ。親父には俺から話しておくから…」
そう言ってくれました。ありがたいことでした。
生前の家内の考えを良く聞かされていた義理の妹は、黙って付き合ってくれました。

家内はただ、「荒川に流してくれたらいい」とだけ言っていました。
それを聞かず一部の骨をこの山に撒いたのは、まったくわたしの独断でした。
川に全て流してしまったら、どこに向かって彼女の冥福を祈ればよいのか、分からなかったから…
そう。
葬式も墓も、読経も、人の死に際してわれわれの行うことのすべてが、死者の為というより残された生者の為のものだということが良く分かります。

山に散骨したところで、死者の魂がそこに留まるはずがなく、彼女はこの山に居るわけではありません。
彼女を亡くした年にたまたま流行った「千の風になって」は、とても重い符号となりました。
けれど、それでもわたしたち親子は自分たちの気持ちのけじめを付けるため、毎年この山に登ってきたのでした。

ヤマザクラ02


登るほどに空気が澄み、冷ややかになります。
だから、山頂付近の桜はまだまだ健在でした。
サクラは、青い空にとても映えます。

八重桜

生前、家内が賛同してなにかと支援していたNPOがあって、それはこの近くにサクラの森を作り、そこに散骨するという樹木葬を進める会でした。
だから、わたしはこの山の山頂から少し分け入ったところにある大きなヤマザクラの足元に、家内の骨を散骨しました。
そのサクラは残念ながらほとんど花びらを散らした後でしたが、それでもまだ、わずかな花びらを残していてくれました。

ヤマザクラ04

娘と手を合わせ、そこにはたぶん居ないであろう家内に、昨年と今年に起こったことの数々を報告し、これからも娘を見守ってくれるよう頼みました。今年この国が見舞われた災厄について報告し、その不幸の数々が少しでも早く鎮まるよう祈りました。
神ならぬ身の家内には迷惑な話であったかもしれません。


葬式の在り方、死者の供養の仕方、墓に対する考え方は様々です。
そのことについてわたしなりの意見や考え方を述べることは出来ますが、しかし、そのことについて誰かと議論する気にはなりません。
対立する考えがあるとすれば、それは誰もが知り得ない「真理」を巡っていつまでも対立し続けるよりない、とても不毛なものになりかねないからです。
さらに、わたしは家内のことを引き合いには出したくないし、彼女の考え方を改めて披瀝する気もない…
それはとても個人的で、特別なことであるとそう思いたいのかもしれません。

スミレ

もくもくと歩くわれわれ親子の足元には、本当にずっと、麓から山頂に至るまでの間ずっと、淡い紫のスミレが咲き乱れていたのでした。



よろしければ、ホームページもご覧下さい。
 http://www.yui-garden.com/

















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地震のあと08 さらに歩く

テーマ:思い
mixiでお互いの近況を確認し合っているサンフランシスコの友人が、昨日つぶやきの中で、

NHKニュースをつけたら高校野球だった。今日の日本はどうだったんでしょうか?

と…。


震災発生から早くも2週間。
娘なんぞは、え? まだ2週間しかたってないの? もっと長く感じる、と驚いていました。
確かにこの2週間はとても濃密でしたから、その気持ちも分かる一方、わたしにはとても短く感じます。
だってまだ、安否確認が出来ていない方たちが1万6千人(今朝の新聞で)も居るのです。
もう2週間もたってしまったんだ。それだというのに…
一方で仮設住宅の建設が始まっているというのに、まだまだ食料や水が充分確保出来ないでいる被災者の方もいるのです。

…被災地に流れる時間に大きなズレが生まれ始めている。

いま被災地で起こっていること、或いは原発現場の現状を知りたくてラジオをつけると、たしかに友人の言うように、選抜高校野球…
いま、それどころじゃないだろう、とは決して言わないけれど、せめてNHKくらいは常時リアルタイムで情報を流し続けて欲しいと思いました。

被災地を取り巻く状況全体にも、目に見えて温度差が生まれ始めています。

こちらではガソリン不足は解消し、計画停電も頻度がずいぶんと少なくなったものの、放射性物質に汚染された野菜の問題や水道水の問題もあって、確実にスーパーからミネラルウォーター始めいくつかの品物の姿が消えているし、原発では作業員が被爆したというし… そう、余震もまだまだ続いています。

震災はまだまだ規模を拡大しながら、今も進行しているというのが実感です。
まだ緊急事態は続いている。
余震とか、放射能漏れとか、そうした事々がすべて被災地からのメッセージなのではないかとさえ、思えます。
まだ忘れないでくれ、この災害は東北と東関東だけのものではないんだよ、という…

ラジオで情報を耳にし、テレビの画像で被災地の様子を知り続けることは、被災地と時間を共有するということ。
被災地の様子を常に心に掛けるということは、身体はここらあっても気持ちの一部を被災地に置くということ。
震災によって発生した物資の不足、停電など生活上の様々な不便を甘んじて受け入れるということは、被災地の方たちとそれを分かち合うということ。
そう思えてならないのですが、いま生じつつある温度差に焦りを感じています。

だからね、今日はこれから出掛けるに当たって、いつもはクルマですいと行けてしまう場所だけれど、電車と徒歩で目的地を目指します。
別にガソリンを大切に使うということだけでなく、この身体をいつまでも緊急事態の緊張感の中に置いておきたいから…
うん。
そうでないと簡単に緊張感を解いてしまう程度の、わたしは心の弱い人間ですので。

地震のあと06 被災地を歩く(阪神淡路大震災)

テーマ:思い
昨日も雨の中でしたが、電車と徒歩で打合せに出掛けました。
わたしのホームページをご覧になり、声を掛けて下さったお客さま。
第一声が、「歩いて来られたんですか?」
ブログも読んでくださっていた様子なので、初めてお会いしたとは思えないくらい親密に、楽しくお話しが出来ました。
この日は秩父鉄道の改札を通るたび、駅員さんが
「明日から平常運転です! 急行以外、通常ダイヤで運行しまーす」
と声を張り上げていました。
寒い一日でしたが、何だかそれだけで気持ちが幾分暖かくなったようです。

本当に早く、みんなが元に戻れば良いのですが…



前回のブログに書いた阪神淡路の被災地のこと…

その時に書いた文章が見つかりましたので、ここに乗せます。
当然16年前の自分が書いたものですが、今になって改めて考えさせられることも多く有りました。


 災害から数えて9日目。初めて被災地に降りた。
 3日目に神戸に戻ったものの、ここ鈴蘭台は比較的被害も少なく、ライフラインの復旧も速かった。幸いにしてわが家はほとんど無傷で、まったく申し訳ないほどだ。ここに居る限りは災害の実態がまるで見えてこない。狭山に居た時と大した変わりがないと家内は言う。ただ、それでもアスファルトの亀裂があり、ガス復旧のために掘り返した跡に砕石が露出してあり、一部の生活物資が不足し、交通の主要な中継点ということもあって交通量が異常なほどに膨大していることで、かろうじてそれと知れる。テレビはうんざりするほどに見た。それでも飽かず見ている。ほんとうに嫌になるのだが、それでも見ずにおれない。
 できるところから、ということで仕事を再開したのが7日目だ。仮住まい先で被害にあった客のためにも、早々に仕上げてあげたい現場もある。それが動き始めてようやく、わたしは被災地に降りた。何軒か、被災地の真ん中に位置する顧客もいたし、これから着工する現場の状況も把握しておかなければならなかった。消息のつかめない知人もいた。
 渋滞のために救援の遅れている被災地に、車で降りる気にはなれなかったので混雑する電車を乗り継いで新神戸まで行き、三宮まで歩いた。頭上に覆いかぶさるようにしてビルが傾いている。華やかだった三宮の繁華街が見るも無残な姿をさらしていた。6車線道路の中央を歩いて眺める景色は、まったく別の世界を見るようだ。こんなにもろいものだったのかと愕然とする。それらは、常にそこに有って変わることなく有り続けるものだと、知らず信じていたのだ。たかだか一度の地震程度でこれほど変わり果てるとは、現実に目にしても信じられない。むしろ、目に見る現実の方が、よほど虚構じみている。その中には何度か通ったスナックや洋酒バーも有れば、ジャズスポットも有って、どれも気になったがこれは仕事だ。いちいち訪ね歩く暇は無かった。
 三宮から代替バスで西宮まで。車窓の光景の凄まじさは、ビルの崩壊とはまた別の意味で壮絶だった。一階が押しつぶされ土壁と瓦屋根とが歩道を覆っているのは、どれもつい先頃まで人が暮らし、家族の団欒が有って、あるいはいがみ合いや孤独や喜怒哀楽が押し込められ、内側に閉じ込められていたはずのごく普通の民家だった。片側の壁が崩れて部屋の中が見渡せる。勉強机や炬燵やテレビや冷蔵庫が、その下に投げ出されていた。壁に張られたカレンダーが痛々しい。半ば焼けた布団が生々しい。バスの乗客たちはそうした光景を目にするたびに感嘆の声を上げる。女子高生たちは嬌声をあげる。わたしはしかし声も出せないでいる。どこかで見た光景だった。それはとても近しい風景だった。
 JR西宮の駅前でバスを降り、三宮に向かって戻りながら、片はしから現場を巡った。歩道にはわたしと同じようにズック靴を履き、リュックを背負った人々で溢れていた。みな、黙々と歩きつづける。車道は救援車や自衛隊や自家用車で渋滞が続いている。救急車両のサイレンが途切れること無く鳴り響いて、耳に痛いほどだ。
 土埃の匂いがした。生ゴミの匂いもする。焼け跡の匂いもした。わたしが関与した多くの家は無傷のまま残っていたが、母屋や蔵の倒壊した家もあったし、隣家が寄り掛かかるように倒れたために二階から上の折れ曲がった家もあった。古い塀の倒れた家、水路のコンクリート蓋が粉砕されて渡れなくなった家もある。2号国道を西に向かいながら、北へ南へそうした一軒一軒を訪ねて歩いた。裏の露地は瓦礫がまだ道を塞いでいて、それを乗り越えるようにして歩くことも多かった。
 わたしの会社が下請けをフル動員したところで、おそらく外部の復旧だけでも一月に十棟がいいところだろう。そうした家屋が延々と続く。そう考えただけでも愕然となる。今回の震災で、マスコミはこぞって都市文明のもろさについて言及する。自然の猛威の前に、人間は弱く無力だと。高度な文明に奢った人間に対して自然が鉄槌を下したのだと。…しかし、そうした問題ではないと、わたしは感じている。確かに都市の高度な機能が被害をひどくしているのだし、またそれが復旧を困難にしているのだと言える。そして、わたしはそうした危うさを懸念して、自然に則した生き方を希求した経緯もある。が、ここで目に入るのはそうしたことではない。大地震はすべてを等しく破壊する。三宮の高層ビルだけではなく、淡路島の農家も粉砕した。いま私の前で破壊されたのは人の暮らしだ。電気がすでに復旧し、銀行のオンラインもすぐさま復活したように、文明はしたたかに生き返る。しかし、人の暮らしは容易には取り戻せない。まして、その心の傷は癒えることがないだろう。それがわたしの見た今回の災害の意味だ。
 そして、わたしは思い出した。
 わたしが神戸に来て間もない、今から十年ちょっと前に書いた「直下型」と名付けた詩を。

さて
その十二分の間に
ぐらりと来るのだ
揺れは徐々に高まり
茶だんすでは食器が合奏を始め
壁の絵が落ち
本棚も倒れる
揺れは横から縦に
僕は煙草に火を点け
スパゲティの茹で上がるのを待つだろう
クッキングタイマーが
チン
と ささやかに役目を果たすと
世界は崩壊する
茹で上がりながら
ついに名も与えられず
食されることもなかったスパゲティは
まだ人生の目的を見出していなかった僕や
来年度予算を審議中の国会や
ようやく新居を手に入れ
移り住んで間もない家族や
ニジュウヤホシテントウや
オコゼや
セイタカアワダチソウと共に
滅び去る
それでもそれが
悲しいことだろうか

何もかもが消え去って
最も地上らしくなった地上には
我々の信じてきたものや
信じようと思ってきたものや
信じたいと考えてきたものたちが
ゆらゆらと
陽炎のように立ち昇っては消えるだろう

その次に来る地震をもう
誰一人
呪ったり恐れたり
苦々しく考えたりする者はないのだ
お前の為に
そして実は僕や
僕のスパゲティや
地上に今在る全てのものの為に
そんな朝の来ることを
願ってみるのは

なのだ
ろうか

 わたしは予言したのではない。待望したのだ。自らを含めた人間と、人間の文明すべての崩壊を。ただ、大きな誤算が有った。すべては崩壊しなかった。おまけに、わたしもその中に加わわることなく生き残ってしまった。すべてが崩壊したなら問題にすらならなかった筈の「死者5090名(1/28現在)」という数字が、そして厳然としてそこにある。それは違う。一人でも人間が残ってしまえば、そこから新たな文明は構築される。そして残りの人間の数だけの死が歴史に刻まれ、その意味が問われる。わたしの待望したのはそんなことではなかったのだ。
 逃れるようにしてわたしは道を急いだ。行程の半ばあたりからすでに腿の筋肉は張り、足裏のまめが痛みはじめていた。芦屋を横断し、被災地東部でもっとも凄惨な光景の東灘を横切る。廃墟、という表現は似つかわしくない。そこには人と車が溢れている。誰もが力強く歩き回り、サイレンとクラクションが交互に鳴り渡り、あらゆる場所でささやかな復旧作業が開始されている。仮に人間の文明が脆いと識者が言うなら、わたしは、しかし人間はあくまでしたたかでたくましい、と言い返そう。
 ボロボロの店をそれでも開けて飲み物だけでも提供してくれるハンバーガー屋があった。道行く人を片はしから呼び止めて汁粉をふるまうおばちゃんたちがいた。九州から回送されたバスの運転手は料金が投げ込まれる段ボール箱の中身を見ようともせず、客と相談して大雑把に停車場所を決め、そこで客を降ろし、客を乗せる。そして、誰もが賑やかに語り合っている。どこの道は混んでいる。あそこの避難所には毛布が足りない。どこのおじいちゃんが家に押しつぶされて亡くなった。どこやらのテレビのインタビューを受けた。そこの公園で給水をしてる。あそこに行けば弁当をもらえる。…多摩ナンバーの消防車が放水し、静岡県警の警官が交通整理をし、千葉ナンバーのガス復旧車が道路を開削し、九州訛りの青年ボランティアが自転車を飛ばす。これほど活気に溢れた神戸の街を見たのは初めてだ。足が棒のようになったわたしを、最後にはショッピングカートを引いたおばあちゃんが追い抜いていった。
 わたしは自分の無力さを笑った。
 人間は無力でいて、たくましい。
 都市文明は脆いが、不死身だ。
 感傷はテレビのドキュメンタリーに任せておけばいいし、政府の責任追求は国会で勝手にやっていればいい。
 わたしは不首尾に終わったわたしの願望を棚に上げて、なにやらわくわくしている。いまここは日本で一番不幸な場所でありながら、一番おもしろい場所だろう。千円のおにぎりを子供に売りつける悪党もいれば、焼いたパンを全部ただで配っている善人もいる。凄惨な死の隣にすさまじい生がある。ひっそりと隠し通されてきたものが白日に晒され、本音でしか何事もできず、誰もが涙もろい。強者と弱者が激しく分別され、それでいて両者は同じ地上に立っている。昨日まで電子レンジのスイッチを押していた指が今は薪をへし折り、キーボートのうえにかざされていた手が瓦礫の山を掘り返す。
 この街でいま無視されることは、永久に人類にとって必要のないものだろう。人はまず灯りを求め、食糧と水を求め、住まいと衣類と毛布を求め、ゴミの収集を求めて、今では本と鉛筆とノートを求めている。要求はさらに高まるだろうが、その後、復興を終えてから初めて求めるものなど、もう要らないのかもしれない。
 誰もが労働者となり、哲学者となり、宗教家となったこの街の横断はおよそ30キロ。6時間を要してようやくわたしは新神戸に辿り着いた。すでに精も根も尽き果てたわたしを尻目に、ますます街は躍動感を増していくようだ。
 ひび割れた階段を手すりに掴まって降り、壮絶なラッシュを予感しながら、わたしは温かい夕食の用意された家への帰路についた。



いま読み返して、なんと饒舌なのだろうと感心します。
そしてまあ、多感なこと、いろいろ考えること…
それらのエネルギーの源はもちろん、あの被災地と被災地の人々であったのでしょう。
あの頃、神戸周辺の街にみなぎっていたそのエネルギーは何だったのかと思います。
地震の壮絶なエネルギーが呼び起こした、それは人間の根元に隠されて眠っていたエネルギーなのかもしれません。
さしずめ、地球という生命体の持つ自然治癒力みたいな…
その絶えることのない力強いエネルギーが、今また新しい被災地に余すことなく注がれることを、心から願います。

いま、日本人の美徳ということで世界の賞賛を受けるにふさわしいのは、実のところ被災地に生きる人々、被災地で活動を続ける人々だけかも知れない…ガソリン渋滞や食品の買い占めなど、ごく周辺で起こっている事象を語りながら、一昨日高橋さんとそんな話をしました。

 

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向井康治

ガーデン工房 結 -YUI-は、埼玉を起点に植物を中心に据えたガーデンデザインと設計・施工を仕事とする会社です。
ただし、面白い仕事であれば時には利益も距離感覚も忘れ去る脳天気ぶり。
だから、この仕事にはいつも様々な出会いがあります。人、植物、もの、本、言葉、音楽…。

結 -YUI- はネットワークです。
それは多彩な技術や知識を持った人々が持てる力を共有し合うこと。
人と自然界の美とが満を持して出会うこと。

わたしが文芸、農業、インド、土木、外構、アウトドアと巡ってきた先の到達点は、おそらくそれらみんなの要素を遺憾なく結集することのできる、小宇宙 「ガーデン」でした。

ガーデンデザイナーとして、ガーデナーとして、これまでの、そしてこれから先の「出会い」を余すことなくお伝え出来ればと思います。

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