ヤマザクラ~慰霊登山
テーマ:思い
2011/04/26 05:31
例年は年末か年始に娘と出かけていた、恒例の慰霊登山…
昨年末は病気が重って行けなかったので、いっそヤマザクラの季節にと思って予定していたのが今月半ばの週末でした。
が、それも手の手術の為に一週間遅れとなってしまいました。
でも、おかげで天気には恵まれたかな?
さすがに、先日の雨もあってヤマザクラの多くはすでに散り始めていました。
花びらが敷き詰められた山道は早朝だけに人も少なく、存分にその風情を味わうことが出来ました。
さて、どうして慰霊登山なのかというと…
「もしわたしが先に死んだら、墓には入れないで散骨にしてほしい」というのが、亡くなるずっと前からの家内の遺言でした。
葬式も挙げない、僧侶も呼ばず読経もせず、できれば人も呼ばずに身内だけで見送って欲しい。
頑固で個性的な家内であったし、わたしもそれにはやや劣るものの頑固で個性的でしたので、結婚してすぐに墓を作らないことを申し合わせ、死後の処理についてもそのように取り決めていました。
価値観のかなり違う夫婦でしたが、そのことだけは不思議と考えが一致していました。
わたしの葬儀や墓に関する考え方はインドで暮らしたときに生まれたものが多いのですが、家内の場合、それがどこから来たものなのか、今となれば正確に語ることは出来ません。
ただ、田舎の旧い家に生まれ、長女として家長制度をたたき込まれた彼女なりの、したたかな抵抗であったのかもしれません。
そして、彼女が亡くなったとき、わたしは周囲の意向を一切無視して、彼女の遺志だけを忠実に実行しました。
葬儀は挙げず、僧侶を呼ばず、彼女の身内とわたしたち家族だけで彼女を荼毘に付しました。
義理の兄は、
「俺にはとても理解できないことだけど、お前の好きなようにやってくれ。親父には俺から話しておくから…」
そう言ってくれました。ありがたいことでした。
生前の家内の考えを良く聞かされていた義理の妹は、黙って付き合ってくれました。
家内はただ、「荒川に流してくれたらいい」とだけ言っていました。
それを聞かず一部の骨をこの山に撒いたのは、まったくわたしの独断でした。
川に全て流してしまったら、どこに向かって彼女の冥福を祈ればよいのか、分からなかったから…
そう。
葬式も墓も、読経も、人の死に際してわれわれの行うことのすべてが、死者の為というより残された生者の為のものだということが良く分かります。
山に散骨したところで、死者の魂がそこに留まるはずがなく、彼女はこの山に居るわけではありません。
彼女を亡くした年にたまたま流行った「千の風になって」は、とても重い符号となりました。
けれど、それでもわたしたち親子は自分たちの気持ちのけじめを付けるため、毎年この山に登ってきたのでした。
登るほどに空気が澄み、冷ややかになります。
だから、山頂付近の桜はまだまだ健在でした。
サクラは、青い空にとても映えます。
生前、家内が賛同してなにかと支援していたNPOがあって、それはこの近くにサクラの森を作り、そこに散骨するという樹木葬を進める会でした。
だから、わたしはこの山の山頂から少し分け入ったところにある大きなヤマザクラの足元に、家内の骨を散骨しました。
そのサクラは残念ながらほとんど花びらを散らした後でしたが、それでもまだ、わずかな花びらを残していてくれました。
娘と手を合わせ、そこにはたぶん居ないであろう家内に、昨年と今年に起こったことの数々を報告し、これからも娘を見守ってくれるよう頼みました。今年この国が見舞われた災厄について報告し、その不幸の数々が少しでも早く鎮まるよう祈りました。
神ならぬ身の家内には迷惑な話であったかもしれません。
葬式の在り方、死者の供養の仕方、墓に対する考え方は様々です。
そのことについてわたしなりの意見や考え方を述べることは出来ますが、しかし、そのことについて誰かと議論する気にはなりません。
対立する考えがあるとすれば、それは誰もが知り得ない「真理」を巡っていつまでも対立し続けるよりない、とても不毛なものになりかねないからです。
さらに、わたしは家内のことを引き合いには出したくないし、彼女の考え方を改めて披瀝する気もない…
それはとても個人的で、特別なことであるとそう思いたいのかもしれません。
もくもくと歩くわれわれ親子の足元には、本当にずっと、麓から山頂に至るまでの間ずっと、淡い紫のスミレが咲き乱れていたのでした。
よろしければ、ホームページもご覧下さい。
http://www.yui-garden.com/
昨年末は病気が重って行けなかったので、いっそヤマザクラの季節にと思って予定していたのが今月半ばの週末でした。
が、それも手の手術の為に一週間遅れとなってしまいました。
でも、おかげで天気には恵まれたかな?
さすがに、先日の雨もあってヤマザクラの多くはすでに散り始めていました。
花びらが敷き詰められた山道は早朝だけに人も少なく、存分にその風情を味わうことが出来ました。
さて、どうして慰霊登山なのかというと…
「もしわたしが先に死んだら、墓には入れないで散骨にしてほしい」というのが、亡くなるずっと前からの家内の遺言でした。
葬式も挙げない、僧侶も呼ばず読経もせず、できれば人も呼ばずに身内だけで見送って欲しい。
頑固で個性的な家内であったし、わたしもそれにはやや劣るものの頑固で個性的でしたので、結婚してすぐに墓を作らないことを申し合わせ、死後の処理についてもそのように取り決めていました。
価値観のかなり違う夫婦でしたが、そのことだけは不思議と考えが一致していました。
わたしの葬儀や墓に関する考え方はインドで暮らしたときに生まれたものが多いのですが、家内の場合、それがどこから来たものなのか、今となれば正確に語ることは出来ません。
ただ、田舎の旧い家に生まれ、長女として家長制度をたたき込まれた彼女なりの、したたかな抵抗であったのかもしれません。
そして、彼女が亡くなったとき、わたしは周囲の意向を一切無視して、彼女の遺志だけを忠実に実行しました。
葬儀は挙げず、僧侶を呼ばず、彼女の身内とわたしたち家族だけで彼女を荼毘に付しました。
義理の兄は、
「俺にはとても理解できないことだけど、お前の好きなようにやってくれ。親父には俺から話しておくから…」
そう言ってくれました。ありがたいことでした。
生前の家内の考えを良く聞かされていた義理の妹は、黙って付き合ってくれました。
家内はただ、「荒川に流してくれたらいい」とだけ言っていました。
それを聞かず一部の骨をこの山に撒いたのは、まったくわたしの独断でした。
川に全て流してしまったら、どこに向かって彼女の冥福を祈ればよいのか、分からなかったから…
そう。
葬式も墓も、読経も、人の死に際してわれわれの行うことのすべてが、死者の為というより残された生者の為のものだということが良く分かります。
山に散骨したところで、死者の魂がそこに留まるはずがなく、彼女はこの山に居るわけではありません。
彼女を亡くした年にたまたま流行った「千の風になって」は、とても重い符号となりました。
けれど、それでもわたしたち親子は自分たちの気持ちのけじめを付けるため、毎年この山に登ってきたのでした。
登るほどに空気が澄み、冷ややかになります。
だから、山頂付近の桜はまだまだ健在でした。
サクラは、青い空にとても映えます。
生前、家内が賛同してなにかと支援していたNPOがあって、それはこの近くにサクラの森を作り、そこに散骨するという樹木葬を進める会でした。
だから、わたしはこの山の山頂から少し分け入ったところにある大きなヤマザクラの足元に、家内の骨を散骨しました。
そのサクラは残念ながらほとんど花びらを散らした後でしたが、それでもまだ、わずかな花びらを残していてくれました。
娘と手を合わせ、そこにはたぶん居ないであろう家内に、昨年と今年に起こったことの数々を報告し、これからも娘を見守ってくれるよう頼みました。今年この国が見舞われた災厄について報告し、その不幸の数々が少しでも早く鎮まるよう祈りました。
神ならぬ身の家内には迷惑な話であったかもしれません。
葬式の在り方、死者の供養の仕方、墓に対する考え方は様々です。
そのことについてわたしなりの意見や考え方を述べることは出来ますが、しかし、そのことについて誰かと議論する気にはなりません。
対立する考えがあるとすれば、それは誰もが知り得ない「真理」を巡っていつまでも対立し続けるよりない、とても不毛なものになりかねないからです。
さらに、わたしは家内のことを引き合いには出したくないし、彼女の考え方を改めて披瀝する気もない…
それはとても個人的で、特別なことであるとそう思いたいのかもしれません。
もくもくと歩くわれわれ親子の足元には、本当にずっと、麓から山頂に至るまでの間ずっと、淡い紫のスミレが咲き乱れていたのでした。
よろしければ、ホームページもご覧下さい。
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