止まったままの時間
テーマ:ブログ
2013/06/13 07:00
おのくんの靴下をお届けに
小野駅前応急仮設の集会所に伺おうと決めたのは
つい先日のことでした。
沢山の人から靴下を頂いているのに
私自信がお届けに行かないのは
やっぱり違うなあ~!”
おのくんを作っていらっしゃる方々にお会いして
直接お話を伺いながらお渡ししなきゃ
贈って頂いた皆さんに申し訳ないなあ。
そんな風に思いました。
あんず♪さんとピオニーさんから頂いた靴下と

私たちが住む地域にある
南沼原コミュニティーセンターに持ち寄られた
善意の靴下を持って

宮城県東松島市牛網字駅前の
小野駅前応急仮設住宅集会所を目指して
山形を出発したんのは 9:00ちょと過ぎ頃だったかな・・・・。
山形道~東北道~仙台南部道路~東部道路と進むと
10:40分頃には集会所前に到着。
どなたかいらしゃれば 先に靴下をお渡ししようかと思いましたが
そとからみた集会所は暗く 窓も玄関の扉も閉まっていて
お留守のようでした。
その場から 11:00待ち合わせ予定の山〇さん(シャララさん)に電話。
もう直ぐ着くので近くのコンビニで待っててください。とのこと!”
山〇さんはず~とここ東松島市でボランティアなさっていて
私達におのくんのことを教えて頂いた方です。
暫くして山〇さんが到着。
『に~のさん あれっ待ち合わせは11:30でしたよね~!!”』
えっ!!””
30分も間違ってた
(汗っ)
はははっ!”
『仮設の皆さんにお会いする前に
今の東松島の現状をみて欲しいんです。』
そこで
そのまま山〇さんの案内で
津波の襲った爪あとが残る海側を訪れました。
んん~~~!””
壊れた家がそのままで
なかなか写真を撮ることを
ためらってしまいます。
周りの人家が全て流されたところに
ぽつんと建つ中学校。
『直ぐそばまで行けるのですが
今でもなかなか近づけなくて・・・・
人をご案内するときは
いつもここから見てもらってるんです。』
と仰る山〇さん。
少し離れたところから
今は廃校になったという中学校の校舎を見つめました。
『あっ 時計が止まってますね。』

3:48をさしたままです。
漸く写真に撮らなきゃって思いました。
現実を記録しなきゃってそう思いました。
津波が来た時に止まったのでしょうか。
定かではありませんが
地震発生の 約一時間後です。
それから2年以上 止まったままの時計です。
近くの かんぽの宿

軒天には 松の太い枝が刺さったままです。

古いランドセル。
どなたかのお宅に 大切にしまわれていたものなのでしょう。
東松島市では1000人を越える方が亡くなったのだそうです。
私たちが関われることは まだまだあることを感じました。
『共感すること』
他人事(ひとごと)は他人事とせず
他人事は我が身のことと 共感すること。
そこかな~って思います。
津波も原発も我が身のことです。
さて 11:30頃
集会所に伺いました。
靴下お渡しして
粟野さんから預かった
ワラビの水煮をお渡しして・・・
集会所のお母さんたち
とっても元気で明るくて!!”
『一本のまま 食べて見てください・
柔らかくて 美味しいはずです。』
『ホント 美味しいね~~~!!”
ははははは~~~!!”””』

『んじゃあ~ 今度 サクランボ持ってこなきゃねぇ~』
『はははっ!” その後は リンゴやラ・フランスだね~~
ははは~~~!” これ食べて さっき船から上がった海老だよ!!”』
和やかにお話出来ました。


『実はさっき一度お邪魔したのですが
みなさんお留守だったようで・・・・・』
『え~~~!” あんだ 何時頃来たの
私らみんな 9時過ぎからここに来て ず~と作業してたよ」
『10時半過ぎです。 だって電気も消えてたし
窓も玄関も閉まってたし なにより静かでしたよ。。。』
『昼間っから電気なんて点けないよっ もったいないっ!!!』
人が訪れていない時は
きっとただ黙々と作業されているんですね。。。
ここは 趣味の手芸教室じゃないってことを
改めて痛感したのでした。
サクランボ抱えて また伺わなきゃね!!”
そんなことを心の中で誓った一日でした。
止まった時間を
止まったままにしとくわけにはいきません。

小野駅前応急仮設の集会所に伺おうと決めたのは
つい先日のことでした。
沢山の人から靴下を頂いているのに
私自信がお届けに行かないのは
やっぱり違うなあ~!”
おのくんを作っていらっしゃる方々にお会いして
直接お話を伺いながらお渡ししなきゃ
贈って頂いた皆さんに申し訳ないなあ。
そんな風に思いました。
あんず♪さんとピオニーさんから頂いた靴下と

私たちが住む地域にある
南沼原コミュニティーセンターに持ち寄られた
善意の靴下を持って

宮城県東松島市牛網字駅前の
小野駅前応急仮設住宅集会所を目指して
山形を出発したんのは 9:00ちょと過ぎ頃だったかな・・・・。
山形道~東北道~仙台南部道路~東部道路と進むと
10:40分頃には集会所前に到着。
どなたかいらしゃれば 先に靴下をお渡ししようかと思いましたが
そとからみた集会所は暗く 窓も玄関の扉も閉まっていて
お留守のようでした。
その場から 11:00待ち合わせ予定の山〇さん(シャララさん)に電話。
もう直ぐ着くので近くのコンビニで待っててください。とのこと!”
山〇さんはず~とここ東松島市でボランティアなさっていて
私達におのくんのことを教えて頂いた方です。
暫くして山〇さんが到着。
『に~のさん あれっ待ち合わせは11:30でしたよね~!!”』
えっ!!””
30分も間違ってた

はははっ!”
『仮設の皆さんにお会いする前に
今の東松島の現状をみて欲しいんです。』
そこで
そのまま山〇さんの案内で
津波の襲った爪あとが残る海側を訪れました。
んん~~~!””
壊れた家がそのままで
なかなか写真を撮ることを
ためらってしまいます。
周りの人家が全て流されたところに
ぽつんと建つ中学校。
『直ぐそばまで行けるのですが
今でもなかなか近づけなくて・・・・
人をご案内するときは
いつもここから見てもらってるんです。』
と仰る山〇さん。
少し離れたところから
今は廃校になったという中学校の校舎を見つめました。
『あっ 時計が止まってますね。』

3:48をさしたままです。
漸く写真に撮らなきゃって思いました。
現実を記録しなきゃってそう思いました。
津波が来た時に止まったのでしょうか。
定かではありませんが
地震発生の 約一時間後です。
それから2年以上 止まったままの時計です。
近くの かんぽの宿

軒天には 松の太い枝が刺さったままです。

古いランドセル。
どなたかのお宅に 大切にしまわれていたものなのでしょう。
東松島市では1000人を越える方が亡くなったのだそうです。
私たちが関われることは まだまだあることを感じました。
『共感すること』
他人事(ひとごと)は他人事とせず
他人事は我が身のことと 共感すること。
そこかな~って思います。
津波も原発も我が身のことです。
さて 11:30頃
集会所に伺いました。
靴下お渡しして
粟野さんから預かった
ワラビの水煮をお渡しして・・・
集会所のお母さんたち
とっても元気で明るくて!!”
『一本のまま 食べて見てください・
柔らかくて 美味しいはずです。』
『ホント 美味しいね~~~!!”
ははははは~~~!!”””』

『んじゃあ~ 今度 サクランボ持ってこなきゃねぇ~』
『はははっ!” その後は リンゴやラ・フランスだね~~
ははは~~~!” これ食べて さっき船から上がった海老だよ!!”』
和やかにお話出来ました。


『実はさっき一度お邪魔したのですが
みなさんお留守だったようで・・・・・』
『え~~~!” あんだ 何時頃来たの

私らみんな 9時過ぎからここに来て ず~と作業してたよ」
『10時半過ぎです。 だって電気も消えてたし
窓も玄関も閉まってたし なにより静かでしたよ。。。』
『昼間っから電気なんて点けないよっ もったいないっ!!!』
人が訪れていない時は
きっとただ黙々と作業されているんですね。。。
ここは 趣味の手芸教室じゃないってことを
改めて痛感したのでした。
サクランボ抱えて また伺わなきゃね!!”
そんなことを心の中で誓った一日でした。
止まった時間を
止まったままにしとくわけにはいきません。
