双葉町モノクロ写真展‘HOME TOWN’ 2015.7.
テーマ:東日本大震災復興
2016/01/10 04:40
昨年7月、上尾市の「ぷちとまとアートカフェ」にて標記の写真展が2週間にわたって開催された。
東日本大震災当時、福島県双葉町で英語の補助教員をしていたアンソニー・バラードとフィリップ・ジェーマン。
二人の英国人が記録した震災後の双葉町とかつてそこに住んでいた人々の記録である。
昨年の春、古い友人が加須市の騎西地区にある小学校に赴任した。
騎西は震災と原発事故直後、双葉町の人たちが集団で避難した場所であり、アンソニーとフィリップ両氏も町の人々と共に移り住んでいた。友人の学校で現在もフィリップが補助教員をしていることで、今回の縁が生まれた。
ちなみのその小学校では昨年秋、いわき市での修学旅行を実施している。校長である友人の強い意志と、教職員の皆さんの熱意、保護者の皆さんの深い信頼によるものだと思う。
双葉町の人々は震災後しばらくの間、加須の旧騎西高校に避難しておられたが、その後そのほとんどが故郷に近いいわき市へと移転したため、二人の英国人は一月ごとに加須といわきとを往復しながら、それぞれの小中学校で英語を教えていて、その機会に月一回のペースで双葉町に入り、町の「今」を撮り続けている。
双葉町は福島第一原発の立地する町。事故直後から全町避難が続いており、ごく一部を除いて今なお「帰宅困難区域」の指定を受けている。少なくとも生きているうちには戻る事が出来ないだろうと多くの住民が考えている、そんな厳しい状況にある。
町への立ち入りは16歳以上の住民であれば申請をして、写真展の当時で年15回、一回につき日中の5時間に限って許可されている。(現在は年20回に緩和されている)
その中で二人が撮り続ける写真には、人々が住めなくなって久しい町の現在の姿と、苦悩する町の人々とが映し出されている。
フィリップがいくらでも撮って良いよと言ってくれたので、好きな写真を撮らせてもらった。
もっとも心に強く響いたのがこの「ピアニスト」という写真。
彼らの教え子たちは震災直後まだ16歳に満たなかったから、町への一時立入が許可されるようになっても自宅に戻ることが出来ない。アンソニーが町に入って写真を撮り続けていることを知った彼女は、自宅の写真を撮ってきて欲しいとアンソニーに頼んだという。
そして2014年、ようやく16歳になった彼女は自宅に戻った。たまたまその近くを通りかかったアンソニーを見つけた彼女は、彼を自宅に招き入れ、出来ることなら持ち出したかったという思い出のピアノに向かって演奏をした。そういう写真である。
自宅なのに戻りたくても戻れない。大切な品なのに持ち出したくても持ち出せない。
深い悲しみに満ちた写真であり、二人の心の通い合いが温かく伝わってくる写真である。
「職務質問」
町への一時立入の際には出入りの際だけで無く、何ヶ所かのチェックポイントで許可証や身分証明書の提示が求められる。特に彼らは自宅への立ち入りだけでなく町の中を撮影のために動き回るので、その都度見とがめられて警察からの職務質問を受ける。
ただでさえ5時間しか与えられていない貴重な時間を、そのようにして奪われることに彼らは強い苛立ちを感じる事があるという。また、住民の中には自分の町に入るのにどうしてこのように監視されなければならないのか、それを屈辱的に感じる方も居られるとのことだった。
「ジャンプ!」
写っているのは二人の一時立入に同行することの多い小野田明君。双葉町出身の茨城大大学院生。映像芸術について学び、修論で現在双葉町の記録映画を製作している。
この写真展(前回の茨城大学会場とこの上尾会場、その後の大洗会場)の企画運営にも当たっている。
この後わたしは、彼らの双葉町への一時立入に同行させてもらう事になるのだが、その際にも彼の車に同乗させてもらうなど、大変お世話になった。写真の通りの好青年である。
「亜然」
この建物は小野田君のお母さんの実家。
地震のよって大切な思い出の場所が壊れるだけなら諦めもつく。しかし、そこに近づくことが出来ないというのは別だろう。片付けることも、思い出の品物を探すことも出来ない。日々朽ちていく建物をただ見守るしかない。そんなやり場のない哀しみが伝わってくる写真だ。
写真展の最終日。
イギリスに帰っていたアンソニーも加わり、会場で二人のトークセッションとスライドの上映会が行われた。地元の皆さん、双葉から避難して今なお埼玉に暮らす方たち、それとわれわれの仲間が集まった。
二人にとって双葉は単に職場ではなく、人生の途中に立ち寄った一時的な場所でもなかった。そこを心から愛し、そこにこのまま暮らし続けたいと考えた場所。この写真展のテーマである「ふるさと~HOME TOWN」そのものだった。
これはその後、NHKのドキュメンタリー「明日へ~支えあおう~」の中で紹介されたことだが、アンソニーたちは震災当初、うまく日本語を使えないために自分たちがどのように動けば良いか分からなかった。
途方に暮れ、さまよった挙げ句にようやく町民の皆さんが避難した先に合流できた。再会した子どもたちとチョコレートを分けあったという。
その後イギリスのお母さんとようやく連絡が取れた時、お母さんは帰ってくるよう涙ながらに強く懇願する。お母さんの身体を案じたアンソニーはいったん帰国するが、そのままイギリスに留まるよう求める母親に対し、「避難していった子どもたちを放ってはおけない」、「自分の戻る場所は福島しかない」と説得し再び双葉の子どもたちの許に戻ったということだ。
双葉町の今を少しでも多くの人たちに知ってもらいたい。
双葉町をいつまでも忘れないでいてもらいたい。
そのような思いを込めて、今後も要請があればどこへでも写真を持って行きたいと二人は語っている。
東日本大震災当時、福島県双葉町で英語の補助教員をしていたアンソニー・バラードとフィリップ・ジェーマン。
二人の英国人が記録した震災後の双葉町とかつてそこに住んでいた人々の記録である。
昨年の春、古い友人が加須市の騎西地区にある小学校に赴任した。
騎西は震災と原発事故直後、双葉町の人たちが集団で避難した場所であり、アンソニーとフィリップ両氏も町の人々と共に移り住んでいた。友人の学校で現在もフィリップが補助教員をしていることで、今回の縁が生まれた。
ちなみのその小学校では昨年秋、いわき市での修学旅行を実施している。校長である友人の強い意志と、教職員の皆さんの熱意、保護者の皆さんの深い信頼によるものだと思う。
双葉町の人々は震災後しばらくの間、加須の旧騎西高校に避難しておられたが、その後そのほとんどが故郷に近いいわき市へと移転したため、二人の英国人は一月ごとに加須といわきとを往復しながら、それぞれの小中学校で英語を教えていて、その機会に月一回のペースで双葉町に入り、町の「今」を撮り続けている。
双葉町は福島第一原発の立地する町。事故直後から全町避難が続いており、ごく一部を除いて今なお「帰宅困難区域」の指定を受けている。少なくとも生きているうちには戻る事が出来ないだろうと多くの住民が考えている、そんな厳しい状況にある。
町への立ち入りは16歳以上の住民であれば申請をして、写真展の当時で年15回、一回につき日中の5時間に限って許可されている。(現在は年20回に緩和されている)
その中で二人が撮り続ける写真には、人々が住めなくなって久しい町の現在の姿と、苦悩する町の人々とが映し出されている。
フィリップがいくらでも撮って良いよと言ってくれたので、好きな写真を撮らせてもらった。
もっとも心に強く響いたのがこの「ピアニスト」という写真。
彼らの教え子たちは震災直後まだ16歳に満たなかったから、町への一時立入が許可されるようになっても自宅に戻ることが出来ない。アンソニーが町に入って写真を撮り続けていることを知った彼女は、自宅の写真を撮ってきて欲しいとアンソニーに頼んだという。
そして2014年、ようやく16歳になった彼女は自宅に戻った。たまたまその近くを通りかかったアンソニーを見つけた彼女は、彼を自宅に招き入れ、出来ることなら持ち出したかったという思い出のピアノに向かって演奏をした。そういう写真である。
自宅なのに戻りたくても戻れない。大切な品なのに持ち出したくても持ち出せない。
深い悲しみに満ちた写真であり、二人の心の通い合いが温かく伝わってくる写真である。
「職務質問」
町への一時立入の際には出入りの際だけで無く、何ヶ所かのチェックポイントで許可証や身分証明書の提示が求められる。特に彼らは自宅への立ち入りだけでなく町の中を撮影のために動き回るので、その都度見とがめられて警察からの職務質問を受ける。
ただでさえ5時間しか与えられていない貴重な時間を、そのようにして奪われることに彼らは強い苛立ちを感じる事があるという。また、住民の中には自分の町に入るのにどうしてこのように監視されなければならないのか、それを屈辱的に感じる方も居られるとのことだった。
「ジャンプ!」
写っているのは二人の一時立入に同行することの多い小野田明君。双葉町出身の茨城大大学院生。映像芸術について学び、修論で現在双葉町の記録映画を製作している。
この写真展(前回の茨城大学会場とこの上尾会場、その後の大洗会場)の企画運営にも当たっている。
この後わたしは、彼らの双葉町への一時立入に同行させてもらう事になるのだが、その際にも彼の車に同乗させてもらうなど、大変お世話になった。写真の通りの好青年である。
「亜然」
この建物は小野田君のお母さんの実家。
地震のよって大切な思い出の場所が壊れるだけなら諦めもつく。しかし、そこに近づくことが出来ないというのは別だろう。片付けることも、思い出の品物を探すことも出来ない。日々朽ちていく建物をただ見守るしかない。そんなやり場のない哀しみが伝わってくる写真だ。
写真展の最終日。
イギリスに帰っていたアンソニーも加わり、会場で二人のトークセッションとスライドの上映会が行われた。地元の皆さん、双葉から避難して今なお埼玉に暮らす方たち、それとわれわれの仲間が集まった。
二人にとって双葉は単に職場ではなく、人生の途中に立ち寄った一時的な場所でもなかった。そこを心から愛し、そこにこのまま暮らし続けたいと考えた場所。この写真展のテーマである「ふるさと~HOME TOWN」そのものだった。
これはその後、NHKのドキュメンタリー「明日へ~支えあおう~」の中で紹介されたことだが、アンソニーたちは震災当初、うまく日本語を使えないために自分たちがどのように動けば良いか分からなかった。
途方に暮れ、さまよった挙げ句にようやく町民の皆さんが避難した先に合流できた。再会した子どもたちとチョコレートを分けあったという。
その後イギリスのお母さんとようやく連絡が取れた時、お母さんは帰ってくるよう涙ながらに強く懇願する。お母さんの身体を案じたアンソニーはいったん帰国するが、そのままイギリスに留まるよう求める母親に対し、「避難していった子どもたちを放ってはおけない」、「自分の戻る場所は福島しかない」と説得し再び双葉の子どもたちの許に戻ったということだ。
双葉町の今を少しでも多くの人たちに知ってもらいたい。
双葉町をいつまでも忘れないでいてもらいたい。
そのような思いを込めて、今後も要請があればどこへでも写真を持って行きたいと二人は語っている。
2016年のスタートに際して
テーマ:思い
2016/01/06 06:22
新年あけましておめでとうございます。
そして、お久しぶりです。
バタバタと、ただバタバタと慌ただしく過ごしてきた昨年2015年は、しかし内容の濃い年でもありました。
5月には念願だった宮城県山元町におけるフラワーカーペットの製作を、それこそ大勢の地元の皆さんの力を借りて実現することが出来、田んぼの生きもの調査も地元小川町と山元町の両方でそれぞれ、これも念願が叶って大勢の子どもたちに参加してもらって実施することが出来ました。
被災地での活動はすでに「支援」というより、他の支援者の皆さんに対するバックアップやお膳立て、お手伝いといった方向に進み始めており、夏の豪雨被災地やネパール大地震に対する取組もまだまだ続いていくことになると思います。
そしてあの震災以来、不思議なことにずっと宮城県の外に出られなかったわたしが、始めて福島県との関わりを持てるようになりました。
今年はさらに自分の活動の枠を拡げていくことになろうかと思いますが、ここまでがあまりに恵まれた環境におりましたので、そうそういつまでも楽は出来ないだろうと覚悟をしているところです。
過酷な環境下にあって今なお明確な未来が見えないという方は多くおられます。
寄り添う、なんてことはとんでもない奢りですが、せめて自分の立ち位置に関しては謙虚でありたいと、新年を迎えるにあたり思うところです。
本年もまた、なかなか更新が出来ないこととは思いますが、どうか引き続きよろしくお願いいたします!
復興田んぼの生きもの調査隊2015年スタート!
テーマ:田んぼの生きもの調査隊
2015/07/03 21:48
今年もいよいよ田んぼのシーズンが到来した。
お世話になっている宮城の田んぼでは5月の半ばには田植えが始まり、関東のこの近辺では6月に入ってから。田植えのシーズンが終わり、いま稲はすくすくと成長を続けている。
このシーズンでしか出会えない生きものがいるので、少しだけ無理を承知で6月は毎週調査の日程を入れた。
場所と時間とを変え、都合7回の調査を行ったのだが…
正直、やり過ぎであったかも知れない(笑)
まずは6月6日(土)。
津波の被害を跳ね返し、昨年から作付を開始した宮城県亘理郡山元町坂元地区の田んぼ。
昨年は最初の年に関わらず、本当に多くの生きものたちが登場して驚かせてくれた。
ここでは仙台に住む古い友人が、小さい息子を連れてきてくれた。
そして山元町の復興に取り組む仲間たちが集まってきてくれた。
開始直後は前夜からの雨も残っていたが、次第に雨もやみ…
最後には晴れ間さえ覗かせてくれた。
概して今回の調査は天候に恵まれたと思う。
泊まった翌日は資材の天日干しと整理さえ出来るくらいに。
翌週の6月13,14日。
東北大学とアースウォッチ・ジャパンによる「東日本グリーン復興モニタリングプロジェクト」、その南三陸での調査に参加。
自分が主催するので無く、唯一一般調査員として参加させてもらえる貴重な機会となった。
とても勉強になる。
今年はこれ一回きりの開催となってしまったが、できればもう少し研鑽を積みたい思う。
第3週の6月20日(土)、小川町の有機農法の田んぼで農作業と調査。
ここは3年目になるが、いつも生物の多様性に驚かされる。しかも毎回新しい生きものとの出会いが続く。
今回はこれから連携して下さるという埼玉県シェアリング・ネイチャー協会の皆さんと地元の若い親子、里山プロジェクトの皆さんが参加して下さった。
豊かな里山の自然の中に、明るい子ども達の声が響いた。
と、本当はこの後翌週の山元町で終わる予定だったのだが…
この小川町の調査の直前、アースウォッチ・ジャパンの事務局長さんからお電話を頂戴し、急遽イギリスのお客さんにこの小川町の里山を案内してもらえないか、と。
6月25日(木)、平日であったがたまたま仕事の切りを付けられたので、イレギュラーながら小川町の田んぼの第2回調査を実施することにした。
お客さんはアースウォッチ英国本部の方。それに事務局長さん、事務局を手伝うシンガポールの留学生さん、大学で働くその友人のスイスの方、合計4名。
国際色は豊か。
調査の実際を見てもらうのが一番とこれも古い友人の森君に声を掛けたら、彼が快く調査を引き受けてくれた。(じつは前回調査に参加できず、悔しがっていた)
この企画は大成功で、みんなとても日本の里山を楽しんでくれたし、生きもの調査にも夢中になってくれた。
あまり堪能で無い英語でわたしにあれこれ質問してくるのだけは勘弁して欲しかったのだが…
ここでこの農地を切り盛りしている桑原さんが登場。
流ちょうな英語でまたたくまに彼らの疑問に答え、日本の里山と有機農業の実際と日本文化について語り尽くして下さった!
多彩な生きものと多彩な人間とを満喫した、実に有意義な一日だった。
第4週はふたたび山元町へ。
6月27日(土)。
地元の教育委員会が主催する「親子交流体験事業」の一環として、この生きもの調査を実施して下さった。調査地は初めての山下地区。5組の親子、6人の小学生が参加してくれた。
雨ではあったが現地ではサンプリングだけして、町の中央公民館のロビーを使って後のソーティングや同定作業をしようと決めていた。
幸い採取作業の間は大した雨にはならず、子ども達は嬉々として田んぼに網を入れて楽しんでいた。
それにしても小学生たちの集中力は素晴らしく、それに輪を掛けたようにご家族の皆さんも夢中になって生きもの探しを楽しんでくれた。
翌日の28日(日)。
この日むも雨の予報だったが、なかなか自分自身がじっくりと腰を据えた調査を出来ずにいたので、その欲求不満の解消のため、坂元地区のいつもの田んぼに繰り出した。
山元町に帯広から出向して来て下さっている西田さんが付き合ってくれた。
仙台の友人は家族がみんな風邪気味ということで、参加を断念した。
むしろ当然であろう。
が、
この時もたいした雨にはならず…
そして楽しかった!
西田さんも心から楽しんでくれた。
とても熱烈なリピーターになってくれそうだ。
ありがたいことに他の出向職員の皆さん(全国からの)にも声を掛けて、誘ってくれるという。
わたし自身がそうであったように、この活動にはとてもリピーターが多い。
いろいろ気遣って参加してくださる方もいるに違いないが、それでも皆さんとても楽しんでいってくれる。
それが自然の力、生きものの魅力なのだろうなと思う。
そのように楽しみながら自然について学び、知らず震災からの復興を遂げていく郷土について学ぶ、そんな子どもたちが増えていってもらえればと思う。
7月も小川町と山元町で合計3回の調査を実施する。
頑張ろうと思う。
あ、
本業も、もちろん頑張る!