トウゴマの花
うちのお客様で高齢の方なのですが「若いわね~~。」とおっしゃりながら来店された。
どうしてなのかと聞くとこのとうごまのことだった。何も知らずに植えているのねといったような。
その方は戦時中この種を採ってひまし油を作っていたらしい。
学校中でこれを植え油を飛行機の燃料にと。
もうひとりのお客様が私と近いのだがそのことを話すと「どうりで負けるはずよね。」と言われた。
何も知らずにこれを植えて葉っぱの色を楽しんでいたけど、植物一つでも色々と思い出があるものだなと感じた。
トウゴマはヒマとも呼ばれる中国原産の油用植物。
北アフリカ原産であるが、和名からは中国経由で渡来したことがわかる。
日本では大型の1年草であるが、原産地では常緑で、電柱ほどの高さまで高くなるという。
種子から採れる油はヒマ子油(ひましゆ)と呼ばれ、強力な下剤として、医療にもちいられてきた。
ヒマシ油は低温でも固まりにくいことから高高度を飛行する航空機の潤滑油としても利用され、第二次世界大戦前後では大量に栽培されたので、栽培経験を持つ人も多い。
当時の品種は花が緑色のものであるが、現在栽培されているものは花や若芽が赤い「ベニヒマ(アカトウゴマ)」である。生花の花材として利用されるが、時折河原などに野生化したものが見られる。
草丈は2mほどになり、直径30~40cmほどもある大きな葉をつける。7つに深裂するが、葉柄は葉の中央につく。ベニヒマでは新芽は赤く、成葉は葉脈の部分が赤い。
花序は面白い配列であり、雌花が花序の上側に集まって付き、雄花は下側に付く(この逆が多い)。花の赤さは、なるほどトウダイグサ科の色であると納得できる。
赤い果実は褐色に熟し、3つに割れ、中に長さ1cmほどの種子が入っている。種子の表面は暗褐色の地に金色の文様があり、美しい。
じっと眺めていると、虫のようでもあり、クモの腹部を連想させる。
物語る聖書4 「とうごま」
神はヨナに言われた。
「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」
彼は言った。
「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」
すると、主はこう言われた。
「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
(ヨナ書四章九~十一節)
* * *
変わり者のヨナじいさんを、おとなは馬鹿にしてつきあおうともしませんでしたが、わたしたちのようなこどもには不思議と人気がありました。だらしないかっこうでそこらをぶらぶらとしているじいさんの回りには、いつのまにかこどもたちが集まってきたものです。
ヨナじいさんは、しょっちゅうぶつぶつと何かつぶやいていましたが、機嫌がいいときには面白いお話をしてくれました。たいてい「わしがまだ若かったとき…」と始まり、「大いなる都ニネベ」に行くように命じられたのに反対方向のタルシシュに向った話、嵐の海に投げ込まれ大きな魚に飲み込まれた話、ニネベで悔い改めを呼びかけると王様までもが灰をかぶって悔い改めた話と、いつもの話を繰り返し面白がって聞いたものです。
あれは、とても暑い日でした。わたしたちが遊んでいると、畑の端のとうごまの茂みのあたりに人がやってくるのが見えました。顔見知りの若者たちのようです。暑い中、何か重たいものをひきずってきた様子で、それをどさっとなげだして、とうごまの陰で休もうとしているところでした。
「くそ、暑くてたまらないぜ。ろくな日陰もない。」
「ともかくこっちに寄れよ、日にさらされるのは良くないぞ。」
「あいつはどうする?」
「かまわん、放って置け。」
駆け寄ろうとして、ぎょっと立ち止まりました。日射しの中に、見なれない身なりの人が倒れているのです。服はあちこち破れ、血で汚れています。ひどく傷ついているようで、熱く焼けた地べたでかすかにあえいでいますが、身動きもできません。
だれかが「近寄るな!」とどなりました。びくっとしてふりかえると、若者たちがけわしい顔をしてにらんでいます。
どなったのは、「サムソン」というあだ名の男でした。体が大きく力があるだけでなく、なにか納得いかないことがあると、たとえ相手が村の長老であっても激しく食ってかかるので、みんなから一目置かれていました。近ごろ、エルサレムの偉い先生のところで何やら教わってきたということで、人々が会堂に集まるたびに熱っぽくいろいろ訴えていると噂になっていました。
「そいつは異邦人だ。主にむかって罪を犯したんだ。」
「赦すわけにはいかない。主の掟に従って罰を与えてやった。」
「おまえたちもよく見ておけ、主の怒りにふれたらどうなるか。」
とうごまの陰に座った若者たちは、恐い顔をして口々に言ってよこしました。いささか得意げな口調でもありました。
そこに、いつの間にか、ヨナじいさんが来ていたのです。若者たちは、じいさんにむかっても怒鳴りました。
「そいつに近寄るな!」
「主の怒りにふれても、誰もかばってはくれないぞ。」
サムソンが、重々しい口調で言いました。
「じいさん、あんたにだってわかるだろう。このとうごまも、こんなに枯れてきたら、もう引っこ抜くか焼き払うしかない。主は、ご自身に背いたままで従わない、腐って実を結ぼうとしない異邦人どもを、怒りをもって抜き、火をもって滅ぼされるのだ。」
若者たちが、大きくうなずきました。
ヨナじいさんはゆっくりとわたしたちのそばに来て、腰をおろしました。その顔が、少しこわばっているようにも見えましたが、やがて、わたしたちにむかって、もぐもぐと話し始めました。
「おまえさんたち、また面白いお話をしてあげよう。わしがまだ若かったとき、大いなる都ニネベに主の裁きを告げたのだが…」
若者たちは声をあげて笑いました。
「おい、まだニネベの話をしてるのかい。」
「まさかアッシリアの王に会ったなんて言うんじゃないだろうな。だとしたら、じいさん、あんた何百歳になるんだい、え?」
ヨナじいさんはかまわずに続けました。
「ニネベが悔い改めると、神は思い直して激しい怒りを静め、災いをくだすのをやめられた。わしはそれが気に入らずに、都を出て東のほうに座りこんだ。小屋を建てて日射しを避け、何が起こるか見届けようとしたのだ。すると神はとうごまに命じて芽を出させられた。とうごまが陰を作ったので、わしは大いに喜んだ。」
「へえ、とうごまの話は聞き覚えがないなあ。」
若者のひとりがまぜっかえしました。確かに、わたしたちも、とうごまの話は初めてでした。
「しかし、翌日、神は虫に命じてとうごまを食い荒らさせられたので、とうごまは枯れてしまった。太陽が照りつけるとわしはぐったりして、いっそ死んだほうがましだと腹を立てた。
神は言われた。『おまえはとうごまのことで怒るが、それは正しいことか。』わしは答えた。『もちろんです。死ぬほど腹立たしい思いです。』
すると、主はこう言われた。『おまえは、自分で育てたのでもないとうごまさえ、それほど惜しむのか。それならば、どうしてわたしが、このニネベの何万もの人々を惜しまずにいられるだろうか。』」
サムソンが、青ざめた顔でゆっくりと立ちあがりました。
「おい、じいさん、いったい何が言いたい。今のは、どういう意味だ。」
若者たちが、ヨナじいさんをとりかこみました。それからのことは…。
わたしたちがヨナじいさんを見たのは、それが最後でした。
* * *
よく言われることだが、ユーモアとは自分の愚かさ、みっともなさをさらけだす笑いであり、他人の愚かさを笑うエスプリとは区別される。つまり、ユーモアとは、自分自身の小ささ愚かさを認めることなしには生まれ得ないものなのだ。
だから、本来、信仰はユーモアと近しいものであるはずだ。信仰は、神の前での自分の小ささ、限界、罪を認識することなのだから。しかし、そうであるはずなのに、現実には必ずしも信仰とユーモアが親しい関係にあるとは言えないのはなぜだろう。
神と自分との間のとてつもなく遠い隔たりを忘れ、自分が神に近い存在であるかのようにふるまいはじめたとき、ユーモアは失われる。自分の小ささ、愚かさ、みっともなさを見ることをやめ、神の権威や力を、自分のものであるかのように考えはじめたとき、人は、きまじめな暴君となる。
「神の民」が、神の権威を自分たちの権威としたとき、選民意識と排他主義が頭をもたげ、自分たち以外の存在を「異邦人」として蔑み裁き、他者を傷つけ滅ぼすことをも正しいと信ずるようになった。ヨナ書は、そのような時代の流れに立ち向かおうとしたものだといわれる。
ヨナ書は、ユーモアに満ちた物語だ。ヨナの愚かさ、小ささ、情けなさが、物語をいきいきといろどっている。著者は、尊大で愚かにふるまうヨナを、批判しているのではない。自嘲しているのだ。自分たち「神の民」の姿は、しょせんこのようなものではないか、と。
ユーモアは、危険なものだ。自分の小ささ弱さをえぐりだして笑いにさらすことは、自分の傷をえぐる痛みをともなうことでもある。同じように、自分たちの時代、自分たちの社会、自分たちの群れの、愚かさ情けなさを笑うユーモアは、仲間が抱えるひそかな傷をえぐり、痛みをもたらすことでもある。だから、そういうユーモアは、その笑いの痛みに耐えることができない者を憤らせ、怒りをかう。
神の権威を自分のものとし、自分の裁きと怒りを正しいものとする人間の小ささ愚かさを笑うヨナ書のユーモアは、信仰の権威を振りかざす者にとっては危険なものであったはずだ。それにもかかわらず、不思議にもこの物語は保存され、聖書の列に加えられた。神の民の信仰は、ヨナ書のユーモアに耐えるくらいには健全であったといえるかもしれない。
聖書となったヨナの物語は、今もわたしたちに問いかけている。わたしたちの信仰は、はたしてユーモアに耐え得るものだろうか。ユーモアを失ったきまじめな信仰は、「正しい」裁きと「正しい」怒りに満ちたものになるだろう。しかし主は、ヨナの物語を通して、その「正しい怒り」にむかって問うのだ。「おまえは怒るが、それは正しいことか」と。
(久世そらち)
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