十三浜にソーラーパネルを届ける
テーマ:東日本大震災復興
2012/08/28 22:26
長かった8月が間もなく終わろうとしています。
多くのお客さまに迷惑を掛けながら、仕事の合間に…ではなく、東北での3つの活動の合間に仕事をするという毎日でした。
もちろん、そんな片手間に出来る仕事であろう筈は無いから、この一ヶ月は現場仕事をすべて休みにして設計に専念しようとしたのですが、いつもの事ながら連日の暑さに思うに任せない…そんな毎日でもありました。
7月下旬のある日。
わたしは古い友人たちが主催するNPOの、とある活動に参加させてもらうことが出来ました。
それは子どもたちを中心に手作りしたソーラーパネルを、石巻の十三浜という被災地に届けて設置してもらうというもの。その2回目の製作が行われたのが7月の下旬で、まさにその石巻の北上川で干潟の調査をし、帰路に山元町を訪ねたその翌日のことでした。
震災の被災地や発展途上国に手作りのソーラーパネルとその技術とを届け続けるソーラーネットのSさんに指導を乞い、福島県いわき市を拠点にして被災地に太陽光発電施設を設置し続けるインディアン・ビレッジの皆さんの協力を得て、われわれの仲間たちが製作した2枚のパネルは、震災後いまだ街灯の明かりの戻らない石巻市の十三浜にある、とあるログハウスに設置される運びとなりました。
そしてその設置場所はなんと、われわれの古い仲間の娘さんが勤務していた小学校のすぐ近くという縁が重なりました。そしてまた、わたしがこの夏、田んぼと干潟の生き物調査に参加させてもらったのもその側という偶然…
1枚のパネルが生み出す電気は20ボルト足らず。
でも、それを行政や企業に頼らないで中高生も加わったまったくの手作りで生み出せるということを知り得たのは、とても意味深いことでした。
そして、その中高生たちとわれわれの古い仲間たちとが、設置されたソーラーパネルを見に出かけたのが先々週のこと。それは同時に被災した小中学校を訪ねる旅でもありました。
名取市の閖上中学校。
ここでも14人の尊い命が失われました。
そのすぐ側の保育園跡に建てられた「閖上(ゆりあげ)の記憶」と名付けられた建物。
そこでは津波による被害の実態を克明に記録し、記憶し、後生に伝えようとする強い意志がありました。
それが再生に至る唯一の道というなら、それは間違いなくそうであろうと思います。
その展示物の一つに被災した子どもたちが粘土で作った町の風景がありました。
それは震災前の懐かしい町の姿であり、まさに津波に襲われている町の姿であり、彼らがこれから建設したいと願う未来の町の姿です。
それらの製作を段階的に行っていくことで子どもたちの心を再生させていくという取り組み。
確かに自分たちに襲いかかった津波を思い出すという行為は、大人にとってさえ辛いことであり、まして子どもたちの傷の深さはどれほどだったでしょうか。
でも…
子どもたちはこのようにしてしっかりと現実を受け止め、そのことでもう一度生きていく力を取り戻していくのだと、わたしもそこで確信することができました。
仙台市荒浜小学校。
石巻市大川小学校。
そして、ここがわたしたちの古い仲間の娘さんが勤務していた相川小学校です。
幸いこの小学校では全員が地区の人たちと一緒に裏山に登り、校舎は壊滅的な被害を受けたものの一人の命も失われることは無かったとのことでした。
その裏山に続く山道の入り口に立って、本当によくこんなところを登ったものだと、今更のように感心したものでした。
そして、ソーラーパネルはそこから歩いてわずか5分程度の場所にありました。
やはり手作りで建てられたログハウスの中には小さな窯が納められていました。
このソーラーパネルが、この先どんな明かりを点し、その明かりがどのような人々の営みを照らしていくのか…
その先にどのような再生が始まるのか…
それらを確かめる為には、やはりこの先何度もこの場所を訪れるしかないのだろうと、強く深く、そう思いました。
多くのお客さまに迷惑を掛けながら、仕事の合間に…ではなく、東北での3つの活動の合間に仕事をするという毎日でした。
もちろん、そんな片手間に出来る仕事であろう筈は無いから、この一ヶ月は現場仕事をすべて休みにして設計に専念しようとしたのですが、いつもの事ながら連日の暑さに思うに任せない…そんな毎日でもありました。
7月下旬のある日。
わたしは古い友人たちが主催するNPOの、とある活動に参加させてもらうことが出来ました。
それは子どもたちを中心に手作りしたソーラーパネルを、石巻の十三浜という被災地に届けて設置してもらうというもの。その2回目の製作が行われたのが7月の下旬で、まさにその石巻の北上川で干潟の調査をし、帰路に山元町を訪ねたその翌日のことでした。
震災の被災地や発展途上国に手作りのソーラーパネルとその技術とを届け続けるソーラーネットのSさんに指導を乞い、福島県いわき市を拠点にして被災地に太陽光発電施設を設置し続けるインディアン・ビレッジの皆さんの協力を得て、われわれの仲間たちが製作した2枚のパネルは、震災後いまだ街灯の明かりの戻らない石巻市の十三浜にある、とあるログハウスに設置される運びとなりました。
そしてその設置場所はなんと、われわれの古い仲間の娘さんが勤務していた小学校のすぐ近くという縁が重なりました。そしてまた、わたしがこの夏、田んぼと干潟の生き物調査に参加させてもらったのもその側という偶然…
1枚のパネルが生み出す電気は20ボルト足らず。
でも、それを行政や企業に頼らないで中高生も加わったまったくの手作りで生み出せるということを知り得たのは、とても意味深いことでした。
そして、その中高生たちとわれわれの古い仲間たちとが、設置されたソーラーパネルを見に出かけたのが先々週のこと。それは同時に被災した小中学校を訪ねる旅でもありました。
名取市の閖上中学校。
ここでも14人の尊い命が失われました。
そのすぐ側の保育園跡に建てられた「閖上(ゆりあげ)の記憶」と名付けられた建物。
そこでは津波による被害の実態を克明に記録し、記憶し、後生に伝えようとする強い意志がありました。
それが再生に至る唯一の道というなら、それは間違いなくそうであろうと思います。
その展示物の一つに被災した子どもたちが粘土で作った町の風景がありました。
それは震災前の懐かしい町の姿であり、まさに津波に襲われている町の姿であり、彼らがこれから建設したいと願う未来の町の姿です。
それらの製作を段階的に行っていくことで子どもたちの心を再生させていくという取り組み。
確かに自分たちに襲いかかった津波を思い出すという行為は、大人にとってさえ辛いことであり、まして子どもたちの傷の深さはどれほどだったでしょうか。
でも…
子どもたちはこのようにしてしっかりと現実を受け止め、そのことでもう一度生きていく力を取り戻していくのだと、わたしもそこで確信することができました。
仙台市荒浜小学校。
石巻市大川小学校。
そして、ここがわたしたちの古い仲間の娘さんが勤務していた相川小学校です。
幸いこの小学校では全員が地区の人たちと一緒に裏山に登り、校舎は壊滅的な被害を受けたものの一人の命も失われることは無かったとのことでした。
その裏山に続く山道の入り口に立って、本当によくこんなところを登ったものだと、今更のように感心したものでした。
そして、ソーラーパネルはそこから歩いてわずか5分程度の場所にありました。
やはり手作りで建てられたログハウスの中には小さな窯が納められていました。
このソーラーパネルが、この先どんな明かりを点し、その明かりがどのような人々の営みを照らしていくのか…
その先にどのような再生が始まるのか…
それらを確かめる為には、やはりこの先何度もこの場所を訪れるしかないのだろうと、強く深く、そう思いました。
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