サクラ~遅ればせながら
テーマ:思い
2010/04/29 05:14
4月になっても繰り返される寒さのせいで、ふだんよりもずっと長く楽しめた今年の桜…
でも、さすがにこの関東ではそろそろ時季外れとなりました。
この季節になっていつも思い出すのは、神戸時代、住宅メーカーの年度末決算のアオリを食らって2月半ばから4月半ばに掛けて、1日も休むことなく朝の6時から夜は11時過ぎまで走り回ったころのこと…
その頃に書いた詩に、「超過勤務のはて」というのがあって、いつもこの時期には決まって思いだしてしまいます。
およそ人間に
やれる仕事の量じゃないぞ
殺す気か
と会議の席上
苦言だけは呈してみたものの
それでもこなしてのけるよりない事は
誰にもまして知っている
年に一度の年度末決算
と
我々のハードワークの必然性との
連関なんぞ
理解すべくもしたくもないが
それがお前の仕事と言われれば
誇りも自負も
情熱も持てぬままに
すでに充分疲れの溜まった身体を
現場まで引きずっていくより
ないのだ
何の為に働くのかという
命題に明確な解答を見出せぬ以上
私は今日を
明日につなぐだけの不毛を繰り返すよりなく
つまりは昨年以来の
ジューニシチョーのカイヨウを元気づかせ
不意の胃痛の眠れぬ夜をやり過ごし
運転中の記憶を失い
幾度となく段取りミスを重ね続ける
そうまでして
人間と人間の時間を擦り減らす
仕事というものを
尊大にせねばならぬのか
辞表を書いては破り捨て
果てしの無かった二ヵ月を乗り切らせたのは
ふいに優しい言葉を発する
人間たちの身近な気配と
つまらぬ見栄と
鼻持ちならない自尊心だ
見事
こなし切ったという実績が残り
この実績は確実に
一年後のさらなる地獄を約束する
さんざ働き
超過勤務の代償のすべては
跡形もなく
妻との休暇に使い切り
残せば何やら
仕事におもねる自分が始まるようで
痕跡すら預金口座に記すものかと
完膚無きまで使い切り
肉体の磨耗だけが私の蓄財だ
そのようにして
ようやく試みた人間の主張も
さらに引き続く不毛に呑み込まれ
私はここに居る
自分を誇る何物も持たずに
疲労して救われず
傷めた身体を大の字にして
思い出したように
ここに居る
18年が経過した今も、なにやら身に迫ってくるものがあります。
あの頃は毎年の春がそんな具合でしたから、当然ながら花見など楽しんだことはありませんでした。
うーん、だから花見という言葉にはつねにある種のトラウマが伴います。
そんな毎日の中、休日に仕事で走り回る内に折りからの行楽日和で渋滞に巻き込まれ、ふと、桜が続く土手の上で花見を楽しむ大勢の人々を見たことがありました。
心中はお察しのとおりですが、感情が半ばマヒしてしまっていた当時のわたしにとって、それはすでに現実のものではないどこか遠い次元の景色のように思われて、不思議な感覚にとらわれたのでした。
別の次元に生きているのは、おそらくわたしの側だったのでしょうが…
そんな景色を詩にしたのが次の「異形の川辺」です。
今読むと、自分で読んでもとても難解なのですが、まあ疲れ果てて屈折しきった心の表現だったのでしょうね。
薄紅の花の見事に
打ち興じる人間の季節
川べりの土手に憩う精霊は
おぼろの空を見上げては
決まってそこに置き忘れられる
人間たちの古い時間を清算する
つややかに照り映える
土手の緑までもが意匠となる
まどろむ時間に似たそよぎの中で
人間はそしてどこへ行ってしまったのか
真実をめぐる探究に疲れて
鮮やかに演出された虚構に身を潜めれば
もはやそこには
群れた魚の影の揺れる
川面ほどの画像が映るばかりだ
液晶ディスプレイの中に宿った精霊は今や
語り継がれた虚構の中の
切ない希望を読み取る術も意志もなく
真実すら語る間の無い
高精度の地上を造形する
人間は二進法の土手を下って
美に関する言葉のすべてを検索する
図らずも精霊たちと同じ方角に顔を持ち上げ
ほのかに季節の香を含んだ
宇宙を呼吸すれば
濃い蒸留酒の中に秘められた記憶は
人間がいつでも人間以上のものになれることを
思い出させる
そこに居てそこに居らず
やがて虚構そのものとなる人間が
それでも舞う花片の妙を愛でる夕べ
歌い継がれた唄の繰り返される
川岸の艶やかな樹木の下では
愚かな生命を愚かなままで
慈しむ懐かしい精霊が
今もひとつふたつ
静かに安らいでいる
春になれば必ず思い出す、これもひとつの風景です。
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