久々の更新で…(汗
テーマ:植木屋さん。
2013/08/14 23:19
ここの所、本当に忙しく、ブログのこと どころでなかった
仕事の方も ずっと忙しく、毎日依頼を頂き、またバタバタと現場&見積をこなす。
今年は特に 新規のお客様の ご依頼も多く 頂いておりますが とにかく、
ま、マジでお盆休みどころでない感じが…と思っていたら やはり そのようになり…
唯一、今日だけを お盆休みに。
遠くに行く時間的な余裕はないので
今回は近場のプールに。
鳥栖市民プール リンクあります♪
たまにJRに乗ったときに 見かけることはあったのですが 行ったのは初めて。
ちょうどいい規模で、料金的にも大人200円
小学生~中学生まで100円と かなーりリーズナブル。
しかも 延長料金もなく、しっかり遊べます。
お弁当などの持ち込みも出来るので 一日、ゆっくり 遊べました。
オープンから行ったので 実に6時間…
子ども達 ホントに良く遊びました。
そして
実は ミッポの祖母が先日亡くなりました。
生前の祖母は 戦争体験者というだけでなく、満州からの引き上げの体験者で
小さいころから いつも いつも 戦争の話をしてくれていました。
怖い思いをしながら 昭和20年の8月に生まれたミッポの母を抱え 着れるだけの服を着て
お爺ちゃんと命からがら 逃げてきた。
子ども達は母を含め4人居て 小さかった子どもたちを連れての帰国は どんなにか大変だったのか
想像もできません。
そんな経験をしながらも いつも 優しかった 祖母。
亡くなる前 ギリギリまで 自宅で母と叔母に見守られ、支えられて過ごした。
96歳でした。
まだ、実感などなく
里に帰ると 普通に「ばぁちゃん、どこ~?」って言っちゃいそう。
いっぱい 後悔は あって
一番の後悔は 故郷である鹿児島に もう一度連れて行ってあげたかった…ということ。
「連れて行こうか」と話した数年前 祖母は既に「もうきついけん、行ききらんよ」と言っていた。
今 思えば 一か八か連れて行って 帰ってきて 疲れて入院するようなことになったとしても
まだ元気でいる身内や兄弟、友達に会わせることができた方がよかったのかもしれないとも思えてならない。
それに
母が作る卵焼きと違い、祖母が作る卵焼きは お砂糖が入っていて ちょっと甘めで
ミッポは 小さいころから 大好きな味だった。
もう 一回 祖母の卵焼きが 食べたかった。
今まで 祖母が 私にしてくれたこと 以上に 私は祖母には何もして返すことが出来なかった
そういう 反省を口にしていると
母から 「おばあちゃんね、Kちゃんたち(ウチの子どもたち)が来てくれるたびに お小遣いあげるのが楽しみだ
ったのよ。」と言われた。
祖母の記憶が まだ きちんとしている最後に子どもたちを連れて会いに行ったとき
ベッドに横になっていた祖母が「お小遣い、あげないとね」と言ってくれていたけど
「ばぁちゃん、また来るから、今日はいいよ だから元気に しとってよ」って言って断った。
私が子どもたちを連れて帰ってから 祖母は「お小遣いあげないと いけなかったねぇ。。。」と口にしていたらしい。
亡くなってすぐ まだ祖母が 身体の下に敷いていたタオルが温かみが残っているうちに
駆けつけた。
祖母に 「今まで有り難う」って言葉を きちんと言えた。
そして 兄弟と 子どもたち、孫たち、ひ孫たちとで 祖母を送ることが出来た。
周囲の方から 「おばあちゃんは 幸せだったね」と言って頂いた。
ずっと 看ていた、叔母や母は そう言って頂いたのが 何よりの労いの言葉になったと思います。
「美穂ちゃんはいつも 忙しくしてるのに 早く帰りなさい」と私のことを気遣ってくれるのは これからは 空の上
からになっちゃったけど 祖母に届くように これからも頑張っていこうと思っています。
仕事の方も ずっと忙しく、毎日依頼を頂き、またバタバタと現場&見積をこなす。
今年は特に 新規のお客様の ご依頼も多く 頂いておりますが とにかく、
ま、マジでお盆休みどころでない感じが…と思っていたら やはり そのようになり…
唯一、今日だけを お盆休みに。
遠くに行く時間的な余裕はないので
今回は近場のプールに。
鳥栖市民プール リンクあります♪
たまにJRに乗ったときに 見かけることはあったのですが 行ったのは初めて。
ちょうどいい規模で、料金的にも大人200円
小学生~中学生まで100円と かなーりリーズナブル。
しかも 延長料金もなく、しっかり遊べます。
お弁当などの持ち込みも出来るので 一日、ゆっくり 遊べました。
オープンから行ったので 実に6時間…
子ども達 ホントに良く遊びました。
そして
実は ミッポの祖母が先日亡くなりました。
生前の祖母は 戦争体験者というだけでなく、満州からの引き上げの体験者で
小さいころから いつも いつも 戦争の話をしてくれていました。
怖い思いをしながら 昭和20年の8月に生まれたミッポの母を抱え 着れるだけの服を着て
お爺ちゃんと命からがら 逃げてきた。
子ども達は母を含め4人居て 小さかった子どもたちを連れての帰国は どんなにか大変だったのか
想像もできません。
そんな経験をしながらも いつも 優しかった 祖母。
亡くなる前 ギリギリまで 自宅で母と叔母に見守られ、支えられて過ごした。
96歳でした。
まだ、実感などなく
里に帰ると 普通に「ばぁちゃん、どこ~?」って言っちゃいそう。
いっぱい 後悔は あって
一番の後悔は 故郷である鹿児島に もう一度連れて行ってあげたかった…ということ。
「連れて行こうか」と話した数年前 祖母は既に「もうきついけん、行ききらんよ」と言っていた。
今 思えば 一か八か連れて行って 帰ってきて 疲れて入院するようなことになったとしても
まだ元気でいる身内や兄弟、友達に会わせることができた方がよかったのかもしれないとも思えてならない。
それに
母が作る卵焼きと違い、祖母が作る卵焼きは お砂糖が入っていて ちょっと甘めで
ミッポは 小さいころから 大好きな味だった。
もう 一回 祖母の卵焼きが 食べたかった。
今まで 祖母が 私にしてくれたこと 以上に 私は祖母には何もして返すことが出来なかった
そういう 反省を口にしていると
母から 「おばあちゃんね、Kちゃんたち(ウチの子どもたち)が来てくれるたびに お小遣いあげるのが楽しみだ
ったのよ。」と言われた。
祖母の記憶が まだ きちんとしている最後に子どもたちを連れて会いに行ったとき
ベッドに横になっていた祖母が「お小遣い、あげないとね」と言ってくれていたけど
「ばぁちゃん、また来るから、今日はいいよ だから元気に しとってよ」って言って断った。
私が子どもたちを連れて帰ってから 祖母は「お小遣いあげないと いけなかったねぇ。。。」と口にしていたらしい。
亡くなってすぐ まだ祖母が 身体の下に敷いていたタオルが温かみが残っているうちに
駆けつけた。
祖母に 「今まで有り難う」って言葉を きちんと言えた。
そして 兄弟と 子どもたち、孫たち、ひ孫たちとで 祖母を送ることが出来た。
周囲の方から 「おばあちゃんは 幸せだったね」と言って頂いた。
ずっと 看ていた、叔母や母は そう言って頂いたのが 何よりの労いの言葉になったと思います。
「美穂ちゃんはいつも 忙しくしてるのに 早く帰りなさい」と私のことを気遣ってくれるのは これからは 空の上
からになっちゃったけど 祖母に届くように これからも頑張っていこうと思っています。