散り椿と はだかのお地蔵様
伝香寺の散り椿
唐招提寺の末寺で鑑真和上の弟子、思託律師が開いたと伝えられています。その後筒井順慶の母が順慶を弔って筒井氏の菩提寺となったと言われています。
ここの椿は花首を落とすのではなく桜の花びらのように、一枚一枚花びらを落とす珍しい椿です。その散り際が潔いと別名「武士椿(もののふつばき)」と名付けられています。「奈良三名椿」の一つです。 ちなみにあとは、東大寺開山堂と白毫寺です。
平城遷都1300年祭特別公開でお地蔵様に会いに行ってきました。
普段はこの堂内でお過ごしで、例年は地蔵盆の時だけ本堂にお出ましになり、服を着替えられるそうです。
本堂は重文ですが、あっさりした本当に重文?と思う建物でした。
お地蔵様は以前一度、奈良博で拝ませていただきましたが、是非お寺でと思っていたのが叶いました。
住職は唐招提寺のお仕事も兼ねておられるので、めったに伝香寺さんにおられないので、地元の人たちも裸地蔵さんの名前は知っていてもお姿があまりわからないそうです。
写真、撮ってもOKと言ってくださいました。
右の絵葉書は買ったのですが、受付で、全体像の絵葉書を手渡されていたので、こちらのまで買う人は稀で、朝から5枚目だと受付のおじさんが嘆いていました。綺麗なお顔の写真だと思いませんか。
ならまちに おいでよ♪
風情ある町家が軒を連ね、散策者をひとときの時間旅行にいざなう「ならまち」
厳密には、奈良市にはならまちという地名は存在しませんが、その町並みをいつしかそう呼ぶようになったそうです。
ならまち一帯は、かつて隆盛を誇った元興寺の境内であった場所。日本で初めての本格的伽藍として飛鳥に創建され、養老2年(718)平城遷都まもない奈良の地へ移転した元興寺は、東大寺や興福寺とともに南都7大寺のひとつに列せられ、その広大な境内には壮麗な堂塔伽藍が甍を並べていました。
しかし、都が京都へ遷り、時代が変化していくにつれて、元興寺も他の官寺と同様に衰退の道を辿ります。それぞれの堂塔は分離し、荒廃した境内には次第に商工業を営む人々が住み始め、庶民の町が形成されていきました。それがならまちとして発展していくことになります。
お昼ごはんを食べた「はり新」さんです。
230年前に建てられた両替商としての町屋をそのまま利用しています。
いただいた「かみつみち弁当」には古代のチーズ「蘇」や地元奈良の食材が使われているそうです。
かみつみちとは、上津道のこと。
奈良時代の藤原京と平城京を結ぶ幹線道路のひとつで、平安時代以降も、伊勢詣、初瀬詣で栄えたそうで、はり新さんはその街道沿いに建っています。
町屋の2階から撮ってます。
京都と同じように「うなぎの寝床」と形容されるように、間口が狭く、奥へ奥へと部屋が続きます。
「ならまち格子の家」など伝統的な町屋を再現して無料公開してくれているので、どのような家が体感できるのが嬉しい。
しかし、本物の造りなので、どっしりとして落ち着きが、いいです。こんな家に住みたいと切に思います。
今町屋をお店や居住にリフォームされていますが、本当にいいことだと思います。
塔があった跡がよくわかります。
芯柱、四天柱などよく残っています。
小塔院跡も訪れましたが、もう少しきちんと整備して欲しいと願います。
だって、ならまちが今あるのは元興寺があったからでしょ。
栄枯盛衰の歴史を感じてしまいます。
奈良町物語館は元興寺の金堂跡に建っています。金堂の礎石です。と書いてあります。
元興寺極楽房は前に特別公開のときお邪魔したので今回は訪ねませんでした。
極楽房には極楽堂と禅室や五重小塔、智光曼荼羅などあまたの文化財が今に受け継がれています。 私は奈良博に展示されている薬師如来立像が大好きです。
訪れた3月14日はお天気がよくて暖かい日だったせいか、平城遷都1300年祭のためか沢山の人が散策されて楽しまれていました。
この機会に沢山の人に奈良を知って、愛して欲しいと思います。