やはり平山郁夫さんは偉大でした。
奈良県立万葉文化館で4月17日~5月30日まで「平山郁夫展」が開催されています。平山さんの原点の《仏教伝来》をぜひ見てみたかったので、出かけました
今年のお正月に、薬師寺の玄奘三蔵院伽藍大唐西域壁画殿特別公開で、平山郁夫さんの壁画を見ましたそのときは少し離れてガラス越しだったので、大壁画の全体像は掴めたし、平山さんのスケールの大きさや偉大さは伝わりましたが、今回のように間近で絵を見せていただくと、感動が全然違いました何枚かの絵はガラスではなく、そのまま展示されていたのがとても迫力あるものとなってこちらに迫ってきました。偉大な足跡を実感させていただき本当に感動でした
入ってすぐのところに大作の長安の残輝、その横に高熠る藤原京の大殿、その横に、未完成に終わった平城京の大下図が貼ってあります入院して看護婦さんに紙をもらってセロテープで張り合わせ下絵を描かれたそうです。A3ぐらいの紙を何枚も張り合わせ画鋲で止めてありました。残念なことに、平城京の絵の完成はありません
お目当ての仏教伝来は、命がけで描かれた平山さんの心が伝わってくるような密度がありました
絵は、図録や複製画やポスターの印刷と本当の絵とは、色や厚みや密度の違いにあまりに差があるように思い愕然とするのですが、今回も見終わった後、図録を買おうかどうか迷うぐらいに差を感じてしまいました。原爆症と闘い、文化財保護を訴えて活動され、あらゆる所に実績を残された偉大な平山郁夫さんの足跡を感じることができる素晴らしい特別展でした
まだ、行かれていない方はぜひ訪れてみてくださいやはり平山郁夫さんは偉大だ
万葉文化館はとても立派な建物のように思います
富本銭が出土した飛鳥池工房遺跡の上に建物が建っているのですが、これで遺跡との共存になっているのでしょうかまた、地下一階にはとても立派な万葉の歌を紹介する展示になっているのですが、立体的な構成になっていて結構お金がかかっているように思います中身はあまり見るところがなかったように感じたのは、私が、万葉の歌が全然わからなかったからでしょうか
飛鳥の風は 日本の原風景のにおい
「大和は国のまほろば」その中でも、飛鳥を訪れると、よくぞ今までこの風景が守られてきたと感謝します。心地よいお天気の中で、たくさんの方が、歩いたり、レンタサイクルを利用されたりして、飛鳥の風を感じていました
いろんな所に標識があるので、迷うことなく目的地にたどり着けるように配慮されているし、案内所も設けてあるので初心者でも安心
←史跡・伝飛鳥板蓋宮跡。推古天皇から持統天皇に至る7cの100年間は飛鳥地方には歴代天皇の宮が次々に造営されたが遺跡は確認できていないそうです。皇極天皇の宮については伝承があり、発掘が続けられた結果、この遺跡が明らかになったそうです。どんな建物がたっていたのだろうとか、飛鳥の地は、想像力を掻き立てます。また、想像力を巡らすことによって何倍も飛鳥の魅力を感じることができます。
飛鳥って、飛鳥びとの風を感じるところだと思います
前に飛鳥に来たときにお昼ご飯を食べたお店です。中に藍染がいっぱい置いて展示してあります。おそばが店主の手打ちですごくおいしかったのですが、店主は元NHKのアナウンサーだった方だそうです。恰幅が良く、アナウンサーだったので声も良くと異色のおそばやさんでした。アナウンサー時代のお付き合いで著名な方も来られるようです。店の前できんつばも焼いていておいしかったので家族のお土産用にたくさん焼いてもらったことがあります。
←聖徳太子生誕の地 橘寺。
これは太子殿で、中に重文の聖徳太子像が安置されています。
室町時代の椿井舜慶の作と両脚部裏面の墨書銘から確認されている本格的な作例。
あまり大きくない像(55.1cm)が、大きな厨子の中に座っておられてその部屋の外からのちょっと遠い所からの拝観になりますが、なかなか立派な綺麗な造りだと思いました
←観音堂です。
中に重文の六臂の如意輪観音が座っておられます。お顔は定朝の作風に近いです。
飛鳥時代の石造物の二面石。もとからここにあったののではないそうですよ。
太子殿の左横にあり、人の心の善悪二相を表したものといわれています
橘寺を訪れたお目当てはこの聖倉殿の寺宝を見るためでした
最初に拝観料を払えば、ここだけ別にお金を払うこともなく、無料で入ることが出来、心行くまでおまいりさせていただけました。中には、重文・貞観仏の日羅上人像と重文・藤原時代の地蔵菩薩立像と同じく重文・聖徳太子絵伝、重文・鎌倉時代のだ太鼓の縁、重文・吉野朝時代 橘寺型石灯籠などが展示されており、普段見ることの出来ないほう宝物が平城遷都1300年記念事業の一環として見せていただけることはありがたいことです
特に今回日羅上人像を拝見することが出来たのが、とても嬉しかったです
ちなみに、田島間守(たじまのもり)が垂仁天皇の勅命を受けて不老長寿の薬を求めに行き、持ち帰った時には天皇は亡くなっていた。そのとき持ち帰ったものを当地に蒔いて芽を出したものが橘だったので、この地を橘を呼ぶようになった。また、黒砂糖も一緒に持ち帰り後に蜜柑・薬・菓子の祖神として崇められる様になったことから、お菓子屋に橘屋の屋号が多いそうです
この美しい風景が未来永劫残りますように、と願い、帰りのかめバスに乗りました(^。^)