箱石佑太君の日記
70才の徳光さんの24時間マラソンの1週間後、
関東エリアで放送されている徳光さんのラジオ番組の中で
紹介された岩手県山田町の町立大沢小学校を
3月に卒業した箱石佑太君の日記を
改めて読みかえしてみました。
※多くのブログ等で紹介されていますので、ご存じの方も多いと思います。
毎日小学生新聞に寄せられたその体験日記には
震災と向き合う姿や思いが率直につづられていました。
◇3月11日
卒業式の歌の練習をしていました。とてもゆれの大きい地震が来ました。
最初は単なる地震だと思っていました。
大津波警報が出ても、どうせこないと思っていました。
来たとしても10センチメートル程度の津波だと思っていました。
全然違いました。ぼくが見たのは、国道45号線を水とがれきが流れているところです。
お母さんとお父さんが津波が来る前に大沢小に来ているところは見ました。
だけどその後、お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。
お父さんのことが不安でした。車を運転しながら津波にのみ込まれませんように。
そう祈っていました。
◇3月18日
津波から1週間。
お母さんは、もうこんなに日がたっているのに、まだお父さんが見えないとあきらめていました。
じいやんは泣いて「家も頑張って建てるし、おまえたちだってしっかり学校にいかせられるように頑張るから、
お父さんがもしだめだとしても頑張るからな」と言っていました。
◇3月23日
卒業式でした。「ありがとう」の歌を歌っている時、
お父さんに「お父さん、お父さんのおかげで卒業できたよ。ありがとう」と頭の中で言いました。
そしたらなぜか、声がふるえて涙が少し出てきました。
その夜、こんな夢を見ました。お母さんとお父さんが宮古のスーパーマーケットから帰ってきた夢でした。
◇3月25日
親せきの人の携帯に電話がかかってきました。
内容は、お父さんらしき人が消防署の方で見つかったということでした。
急いで行ってみると、口を開けて横たわっていたお父さんの姿でした。
ねえちゃんは泣き叫び、お母さんは声も出ず、弟は親せきの人にくっついていました。
顔をさわってみると、水より冷たくなっていました。
ぼくは「何でもどったんだよ」と何度も何度も頭の中で言いました。
「おれがくよくよしてどうすんだ」と自分に言いました。
でも、言えば言うほど目がうるんでくるばかりです。
お父さんの身に付けていたチタン、東京で買った足のお守りや結婚指輪、携帯。
そして驚いたのが時計が動いていたことです。
お父さんの息が絶えた時も、津波に飲み込まれている時も、ずっと。
お父さんの時計は今はぼくのものになっている。ぼくがその時計をなくしたりすることは一生ないだろう。
◇3月26~27日
見つかった時のお父さんの顔。まだ頭のどこかで見なきゃよかったと。
でも見つかったおかげで火葬もできるし、お父さんをさわることができた。
お父さんの体は水を飲んだのか胸がふくらんでいるだけだ。やっぱり見つかってよかった。
◇3月28日
きょうは火葬の日。
ぼくとねえちゃんとお母さんとけいじろうは、手紙を書いて、お父さんと一緒に入れてやりました。
拝んでいる時ぼくは「箱石家は頑張って継ぐからまかせて」と言いました。
お墓に骨を埋めるまで、ぼくに骨を持たせてくれました。骨をうめてホッとしました。
◇4月7日
きょうは、ありがたいと心から言える日でした。
お父さんとぼくたちの記事を見て、
お父さんが東京マラソンを走った時の写真とお手紙を新聞の人が持ってきてくれました。
ぼくたち家族に贈る言葉や、さらにはぼくに贈る言葉の手紙もありました。
やっぱりお父さんはすごい。今日は本当にありがたい日だ。
毎日小学生新聞の被災児童日記より。
徳光さんもこの記事を読んで、彼に会いに行ったそうです。
震災からもうすぐ半年。
被災した児童(今は中学生)の声にあらためて胸が熱くなりました。
by しーさー
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