菜の花
ひつさぐる わが得具足の一太刀 今此時ぞ天になげうつ
有名な、千利休居士の辞世です。
侘茶道大成者、利休居士は、天正十九年(1591)二月二十八日、秀吉の命により自刃され、例年、三月二十七日、三月二十八日に三千家【表千家、裏千家、武者小路千家】の利休忌が、一月遅れで営まれます。
利休忌には、昔から菜の花(油菜)が供えられます。
今、菜の花といえばハナ菜ですが、昔はナタネ油を採る、菜種の花でした。今は見る機会が少なくなりました。
お茶人さんの中には、利休忌が終わるまで菜の花を用いない方があるとか、奥床しいことです。
天下一の宗匠、利休居士にあやかり、後世種種のものに、利休(利久)の名が冠されています。
茶の湯にかかわるものだけでなく、多岐にわたり、利休色、利休鼠など、名色だけで二十色余り、庭に関してみれば、植木では利休椿(極淡桃色、一重盃状咲、小輪)、利休庵椿(桃色、一重筒咲、中輪)、利休梅(別名、利久梅、梅花下野、丸葉柳桜、明治末中国から渡来、五月ごろ白色梅花形の小さい花が咲く)など、利休垣や利休木戸、石燈籠に利休形、宗易形があります。
また、利休遺愛の伝承をもつ石燈籠や、利休好きといわれる石燈籠はあちこちにあります。(南宗寺、高桐院、薮内流家元、修学院離宮、三渓園など。)
因みに、茶庭(露地)に石燈籠を取り入れた最初は、利休居士だと伝わります。
《 樫の葉の もみぢぬからに ちりつもる 奥山寺の道のさびしさ 》
利休居士が露地のつくり方を尋ねられたとき、西行法師の和歌で露地のありようを答えています。
茶の湯のための庭、露地は古く、坪の内と呼ばれ、茶室への通り道として狭い空間であったようですが、居士のころから次第にに広くなり露地(路地)と呼ばれるようになったと聞きます。
今日、庭に石燈籠、飛石は、約束事のように使われますが、江戸時代、茶道の隆盛とともに、茶の庭から普及したものです。
花をのみ まつらむ人に山里の 雪間の草の春を見せばや
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