ドレスコードについて。
昨日、市内のお城が目の前に見える高級なホテルのレストランに行った。
僕と相方はその前に博物館に寄ったままの格好で、いわゆるラフスタイルだった。レストランの受付をしてくれたのは20代のしっかりした男の子だった。
「大変申し訳ありませんが、ただいまお席のご用意が致しかねますので申し訳ありませんが・・・」
つまり、我々ふたりの格好がラフすぎたのが彼らのドレスコードにひっかかったのだ。
仕方がないので1階にあるワタミで軽くお茶を濁してその日は終わった。
たしかに、暗黙の了解としてのドレスコードは存在する。また、そのことに依存はない。人々は暑い日もネクタイにスーツという格好で日々営業に勤しんでいるのは私も知っている。それは何より、相手に対しての礼儀であり自分に対しての寛容でもある。社会的に世界的に通用している。
ときどきこのドレスコードをぶち破る人が現れる。
たとえば林檎のマークで最近有名なひと。彼は一般的な新商品の発表会やなんかにジーンズとTシャツで舞台に立つ。けっしてスーツを買うお金がないわけじゃないと思う。それが彼のひとつのスタイルだと彼が世間に認めさたのだ。
そうしてみてみれば、彼のプレゼンは大変魅惑的で録画されたものでも私を魅了する。彼のドレスにはいっさい関心は向かわない。
こう言ったひとつのいわゆる「突破力」をもったひとに私は成りたい。
決して、昔にあつらえたスーツが入らなくなったわけではなく、また、新しくはるやまでスーツを買うお金がないわけでもない。ただ、人としての倒れ方の姿勢としてそういったものに魅力を感じるというだけの話でありますです。 (M春樹風味)
抽斗から古いファイルが。
抽斗を整理していたら、古いファイルがでてきた。
たぶん、友人に依頼されて大学のレポートを代筆したときのものだろう。
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企業者史学レポート
氏名
学生番号
1. シュペンターとコールの企業者史学の違い
企業者史学の成立は1948年にハーバード大学に設置されたロックフェラー財団出資の「企業者史学センター」の設置にはじまる。その背景として、経済史と経営史に対する批判や経済発展のあり方を再考するという目的があった。当時アメリカでは途上国にお金とモノをつぎ込んでいたが期待に反して経済発展がおこらず、資金援助だけでは経済発展は自然に起こらず人的資源を育成しなければいけない。そのためにより人間個人に重心を置いた研究をすることになり、企業者に関心のある歴史学者、経済学者、社会学者などによる学際的共同研究機関として発足した。
シュペンターは革新者としての企業者、旧来の慣習的社会構造におけるエッポクメーカーとしての企業者に鋭く重点を当てたのに対してコールは新しく誕生した企業が社会構造に入り込むまでのプロセスまでを広くとらえ安定的成長、外界への適応、集団による活動までを「企業者活動の定義」としたのが大きな違いである。
シュペンターによる企業者個人に焦点を当てた研究というのは、突き詰めてゆくと旧慣習を破壊し革新的価値を創造するという新結合が誕生する時代の社会的経済的条件の研究という面で一般化することはできても最終的に企業者個人の個性に強く依存してしまい一個の事例に収斂してしまうような気がする。対してコールの定義まで拡大して考えると、ある特異的なビッグバンが個人で起こりそれが社会に組み込まれていく過程の中で一般化されうる管理的業務などはあるていど公式化することもできそうな気がする。
2. ダイエー「中内功」は何をしたかったのか?
2003年ダイエーが産業再生機構に委ねられ事実上破綻したのは記憶に新しく、当時「つぶすには大きすぎる」といわれながらさまざまな問題が連日新聞や雑誌に噴出した。今、企業者史学の講義やノート・レジュメを見直しながら「中内功」の企業者史についてあらためて考えてみると中内功は大変幸せな一生を過ごしたのではないかという気がします。
父親の始めた「サカエ薬局」の手伝いから始まって三宮ガード下で開業した闇市時代の「友愛薬局」。この時、昭和22年から3年間中内は神戸経済大学第二課程に通っていた。その理由が「憲法が欽定憲法から新憲法に変わるということだから、憲法だけはどう変わるのか、民主主義というのはどういうことか、これは勉強しておかなければいかんかなと思って」入学したといっている。俵静夫教授の憲法の講義だけはちゃんと聴きに行ったといっている。闇市の生活が続いている紙一重の生活の中で彼がそう考えたことに興味がある。経済は特に興味を覚えず憲法を勉強して「民主主義」の根本だけは知っておかなければならないと考えたところに中内の理念・抽象性があるように思う。この闇市時代に中内はパチンコ事業や風紀産業に業種変しないかと知り合いにもちかけられるが断っている。どちらの分野に進出してもその分野で成功していただろうと彼自身も言っているが、そこには単に儲かればよいという現実的な欲求より強い理念・欲求があった。
セルフサービス業態の出発点になった現金問屋の大阪平野町の「サカエ薬局」。新聞に「乱売の元祖、サカエ薬局」と報じられることで中内はメディアに「革新者・異端者」と取り上げられることに一種の快感を覚えたのかもしれない。それは常に大衆を意識して商売をしている人間にとっては気持ちのいいものだったに違いない。それ以前に市価よりちょっとだけ安く売る(旧商慣習の中での安住)のではなく、半額という反乱を起こしている(しかし、利益率50%以上という旧商習慣もたいした搾取だと思うが)。
経営方針の相違から弟博と袂を分けた「大栄薬品工業」。このころから消費者=主婦が求めているものなら何でも扱おうとする理念がはっきり見えてくる。ただ、中内はいったい誰に対して商売をしていたのだろうか。「サカエ薬局」時代の顧客を大切にするなら弟博とともに大阪平野町にとどまってもよかったかもしれない。そして、昭和32年9月に千林に「主婦の店ダイエー本店大阪」をオープンさせる。知り合いで元ダイエー社員の年配の人に聞いた話だがやはりこのころの中内の魅力・活気はある種の憧憬を持って「千林の精神」として語られることが多い。チェーン化・精肉販売することでメーカー、問屋、小売商からの軋轢が激しくなるがこのあたりの障害はむしろ恋愛と同じで障害が強く大きいほど逆にエネルギーと転化して燃えていったのかもしれない。事務所の張り紙に「日常の生活必需品を最低の値段で消費者に提供するために承認が精魂を傾けて努力しその努力の合理性が商品の売価を最低にできたという事が何で悪いのであろうか?」と墨筆されたものをみて中内の原理原則・抽象性がうかがえる。
「よい品をどんどん安く、より豊かな社会を」というダイエー精神は当初、「よい品をどんどん安く」という言葉に『わが安売り哲学』を書いたことで集まってきた若い人たちにロマンを持たす意味合いを込めて「より豊かな社会を」と続いたと中内功回想録(流通科学大学編、2006年)で述べている。そして豊かな社会とはアメリカを見たからだという。アメリカのライフスタイルを見たからだといっている。特にこの本で印象に残ったのは「回想録インタビューに参加して」と題してあとがきで元岡俊一が書いている
最も重要なのは、事業を拡大していくに至る、やむにやまれぬ「動機」や、「より豊かな社会を」という理念に行動を縛られたという“証言”を引き出したことであろう。
と中内とともにダイエー時代を含め20年間スピーチライターとして薫陶を受けたという元岡が証言している。一時は10万人の人間を使い仕事をしていた経営者の傍らに最後に残ったのはこの回想録を編集した元岡と大溝だけだという元岡自身、中内が「何をしたかったのか」を今も考え続けている人間の一人である。
最後に「流通革命は終わらない」のあとがきに書かれている「野火」は今も燃えているから、中内の人間性が語られるときによく引用されるフィリピンでの戦争体験を原作大岡昇平「野火」特装限定版を読んで追体験してみた。戦争に関する歴史的資料や小説にはほかにももっと悲惨で想像すらできない状況を丹念に書き込まれたものは多い。たとえば重松日記をもとに書かれた井伏鱒二の「黒い雨」には原爆投下後の広島市でのどろどろとした凄惨で希望のかけらもない場面がつぎからつぎに精緻に描かれているものもある。作家の文体のせいか大岡の野火には確かに敗走する兵士の南方における悲惨な状況はかかれているがどこか一歩視点を引いた、ただ、目の前の状況をたんたんと記述しているだけのような空虚さがある。その空虚さや現実としてただ目の前にあるだけ、という感じ。その状況下、頭で何かを考えるということはなく、ただ山を下っていったりする。小説でありながら言葉で表現することを放棄したような文体である。そして、中内はほかのどの本よりこの「野火」に深く共感し敗戦の日8月15日に読み返すという。おそらくその言葉を尽くしても記述しきれない感じが中内を共感させているのではないだろうかと思える。そこから逆により根源的に刻印された記憶というものが感じ取られる。そして、いくら説明してもしきれない事柄に対して中内はさらに言葉を求めようとするのではなく、思考を停止してただ共感する「野火」を読むのではないだろうか。
【参考図書】
・ 中内功回想録 流通科学大学編 2006年9月18日発行
・ 流通革命は終わらない(私の履歴書)中内功著 2000年12月4日 日本経済新聞社
・ 仕事ほど面白いことはない 大塚英樹著 1996年6月5日 講談社
・ 野火 大岡昇平著 1975年5月15日 成瀬書房
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ちなみに、彼に聞いたところこの先生の評価は「D]であったとのこと。(涙、、、)
GPSと町名について
お江戸は800也町、と不確かな記憶を仮定すると紀州藩は東京の3分の1にあたる。かなり強引な展開だがここは私のBlog(赤坂の古庭)なので、いいコトになる。
とすると東京の人口約1200万に対して和歌山は400万人だったはずである。実際はこの前100万人を斬った。400万人という数字はシンガポールや福岡のそれである。でもまだ100万人もいるけっこう大きな都市である。
生憎、和歌山の人口構成がわからないのでなんともいえないのだが、仮に日本の人口ピラミッドと同じとふたたび仮定してみる。団塊の世代をピークにした釣鐘型だ。
元気な65歳以上の人達が元気に歳を重ねていけばその世代がNPOやら地域の良質なマンパワーとなる可能性は充分に期待できる。し、
彼らは生活に未確定で不安定はない。
問題になるのは今5〜10歳の和歌山に住んでいる人達である。団塊の世代が役割りを終えるころに彼らが『どこに』住んでいるかが問題になる。つまり、彼らが家庭を持つころだ。
和歌山には大学がない、いや少ない。2人に1人が高校を卒業すると県外に移動する。もっとかもしれない。和歌山は出稼ぎ県である。稼ぎに行って稼いだら戻ってくればいいのだが、ひとは一度住んだ場所をなかなか動かないようだ。
出稼ぎに行った人達がもどってこれる場所、もしくは出稼ぎにいかなくても良い環境をつくれるか否に問題は収斂してくるように私には思える。
カーナビの街並みを視ながら現実の街並みがタイムスリップしてつい江戸時代におもいを馳せた今日の夕方でした。
CDのレンタル
皆さんはCDのレンタルどうされていますか?そもそも、音源をどのように調達していますか。
というのも、最近ケータイをアイフォンに替えたのですが、先月の利用明細でしばし考えました。SBに6000円ほど支払うのは想定していましたが、Appleに5000くらい支払うのは意外でした。
それほど良くできたプラットフォームというほかありませんが、それでも5000円は見直す必要がありそうです。
そこで、まずオーソドックスにTSUTAYA。入会・年会費無料のTカードを作ってもらいCD2枚とDVD1枚を借りました。たぶん800円ほど。
つまり、CD1枚当たり250円くらいになります。これは近所に24時間のお店があるので利便性はいい。
ちなみにiTunesでDLした2枚のCDの平均値はだいたい1500円。利便性はすこぶる良い。
つぎに見つけたのが近所の図書館。1回1枚1週間の条件でこちらは0円。しかし、利便性はすこぶる悪い。1年ほど前からはじまったらしいが、確か15年前に東京の区立図書館では1回3枚くらいでやっていたと思う。
何が云いたいかというと、今日そのCDの返却日なのである。
夏休み最後の週末
5時を少し過ぎていたと思います。
普段でも週末は駐車場が混むのですが、今日は平日の昼間くらいの車しかありませんでした。すんなり駐車できて嬉しいのですが、ちょっと違和感も感じました。
子供達はどこにいるんでしょうか?
夏休みの宿題はもう済んでいるのでしょうか。また、大学受験生はどこで最後の追い込みをかけているのでしょうか?
図書館がまだお城の敷地内にあったな頃、当時受験生だった私は涼しい場所を求めて県立図書館や市役所の隣にあった市立の図書館に行ったように憶えています。
クーラーは各家庭に1台、いや各部屋に1台あるようになったからでしょうか?それでも家で一人こもっているのと、図書館など他に人がいるのとではどちらが集中して作業できるでしょうか。ひとにもよるとおもいます。私も毎日どちらかひとつは無理です。
選択肢として少なくとも2つはあったほうが良いと思います。今はどちらの図書館も引越して立派になっています。確実に街のインフラは整備されています。
もしかしたら、最後の週末だからこそ家族そろってどこかに遊びに行っているのかもしれませんが。