給食の産地公開要求・線量計測
テーマ:ブログ
2012/01/07 12:18
給食の産地公開要求・線量計測
○福島第一原発の事故後、「放射能から子どもを守りたい」との一心で各地域で立ち上がり、果敢に行動する母親たちの姿が目立った。それはたった一人から、仲間やグル―プ同士、インターネットによるネットワーク化まで見られた。行政に働きかけて動かした成果もあれば、厚い壁にあえぎ続けるケースも多い。
アラブの春になぞらえた今年の社会現象の名は「お母さん革命」――。「福島の原発が廃炉になるころには、小学生のうちの子は四十歳を過ぎている。それを考えたら『お母さん革命』じゃなく、『おばあちゃん革命』になるまで、息長く続けなきゃいけない」こう話すのは、東都練馬区の主婦宮崎みどりさん(四六)だ。(略)
「仕事と育児を両立させるほど器用じゃないので」と、今は小学四年の長男(一○)と年長児の次男(五つ)の子育てに専念する。
(略)最初は一人で思い悩んでいた。練馬区内では五月ごろから、子どもを放射性物質から守るための母親グループが結成され始めていた。
(略)「学校は何もしない。働きかけなきゃ」と思ったのは、原発の爆発から間もない三月十八日。
(略)自身の活動を、アンデルセン童話「裸の王様」に出てくる子どもにたとえる。詐欺師に騙された王様や家来たちが言い出せない状況で「王様は裸だよ!」と叫ぶ。
(略)
「もう危険じゃない、という心理操作に惑わされないように、忍耐強く活動を続けたい。それが大人の責任だと思うから」。「ホットスポットハンター」とも呼ばれ、放射線測定器を持ち歩く川崎市中原区の長戸清美さん(四七)も二児の母親だ。八月、市民グループの一員として市内の公園の放射線量を調べ、周囲より線量が高い「ホットスポット」を次々と見つけた。市がそれまで公園の中央部などを計測し、安全の目安とした毎時0・一九マイクロシーベルトを上回る場所はなく「問題はない」との姿勢を、変えさせた。(略)
「お母さん革命」について「国が情報をちゃんと出さないから、自分たちで動かなければいけないと思った人が多いのでは」。長戸さんは子どもへの愛情と「本能的な種の保存」といい、国への不信は続く。「食品の規制値も一キロ当たり二、三ベクレルでないと。草の根でまだまだ頑張らないと、子どもたちを守れない」。
「青鞜」創刊 原水爆禁止訴え発信先駆らいてうの志継ぐ―「存命なら『原発廃止』のひと言でしょう」
○一九五四年三月、マーシャル諸島ビキニ環礁で米国が行った水爆実験を機に世界に広がった原水爆禁止運動。その発端は杉並区の母親たちの署名活動だった。遠洋マグロ漁船・第五福竜丸の被ばくや、汚染されたマグロは母親たちを
嘆かせた。その流れの中心で、原水爆禁止の訴えを発信したのが、平塚らいてう(一八八六~一九七一)。女性解放運動と自立をけん引した作家だった。その生涯を紹介する写真集「わたくしは永遠に失望しない」(ドメス出版)を出した「らいてう研究会」代表の折井美耶子さん(七六)は「もし生きていたら『原発廃止』の一言でしょう。らいてうの思想の中心は、命の問題でした」と語る。(略)
日頃、主張も異なる女性たちが東京連合婦人会を組織し、復興に力を合わせた。らいてうも加わった。会は行政と協力し、ふとん作りなど被災女性の受産活動に動いた。大正デモクラシーを経て、女性の活動範囲は広がり、戦前から婦人参政権運動も戦後ようやく実る。らいてうは晩年も八十五歳で亡くなるまで平和運動に身を尽くす。七〇年安保に反対し、自宅近くをデモ行進した。
当時を知る折井さんは「小柄で、とってももの静かな方。銀髪がおきれいでした」とその思いを代弁する。「原発再稼働を許すらいてうではない。命を守る運動を積極的に進めることが、志を継ぐこと。男性たちにも頑張ってもらいたい」
(東京新聞12月26日『こちら特報部』より抜粋)
○福島第一原発の事故後、「放射能から子どもを守りたい」との一心で各地域で立ち上がり、果敢に行動する母親たちの姿が目立った。それはたった一人から、仲間やグル―プ同士、インターネットによるネットワーク化まで見られた。行政に働きかけて動かした成果もあれば、厚い壁にあえぎ続けるケースも多い。
アラブの春になぞらえた今年の社会現象の名は「お母さん革命」――。「福島の原発が廃炉になるころには、小学生のうちの子は四十歳を過ぎている。それを考えたら『お母さん革命』じゃなく、『おばあちゃん革命』になるまで、息長く続けなきゃいけない」こう話すのは、東都練馬区の主婦宮崎みどりさん(四六)だ。(略)
「仕事と育児を両立させるほど器用じゃないので」と、今は小学四年の長男(一○)と年長児の次男(五つ)の子育てに専念する。
(略)最初は一人で思い悩んでいた。練馬区内では五月ごろから、子どもを放射性物質から守るための母親グループが結成され始めていた。
(略)「学校は何もしない。働きかけなきゃ」と思ったのは、原発の爆発から間もない三月十八日。
(略)自身の活動を、アンデルセン童話「裸の王様」に出てくる子どもにたとえる。詐欺師に騙された王様や家来たちが言い出せない状況で「王様は裸だよ!」と叫ぶ。
(略)
「もう危険じゃない、という心理操作に惑わされないように、忍耐強く活動を続けたい。それが大人の責任だと思うから」。「ホットスポットハンター」とも呼ばれ、放射線測定器を持ち歩く川崎市中原区の長戸清美さん(四七)も二児の母親だ。八月、市民グループの一員として市内の公園の放射線量を調べ、周囲より線量が高い「ホットスポット」を次々と見つけた。市がそれまで公園の中央部などを計測し、安全の目安とした毎時0・一九マイクロシーベルトを上回る場所はなく「問題はない」との姿勢を、変えさせた。(略)
「お母さん革命」について「国が情報をちゃんと出さないから、自分たちで動かなければいけないと思った人が多いのでは」。長戸さんは子どもへの愛情と「本能的な種の保存」といい、国への不信は続く。「食品の規制値も一キロ当たり二、三ベクレルでないと。草の根でまだまだ頑張らないと、子どもたちを守れない」。
「青鞜」創刊 原水爆禁止訴え発信先駆らいてうの志継ぐ―「存命なら『原発廃止』のひと言でしょう」
○一九五四年三月、マーシャル諸島ビキニ環礁で米国が行った水爆実験を機に世界に広がった原水爆禁止運動。その発端は杉並区の母親たちの署名活動だった。遠洋マグロ漁船・第五福竜丸の被ばくや、汚染されたマグロは母親たちを
嘆かせた。その流れの中心で、原水爆禁止の訴えを発信したのが、平塚らいてう(一八八六~一九七一)。女性解放運動と自立をけん引した作家だった。その生涯を紹介する写真集「わたくしは永遠に失望しない」(ドメス出版)を出した「らいてう研究会」代表の折井美耶子さん(七六)は「もし生きていたら『原発廃止』の一言でしょう。らいてうの思想の中心は、命の問題でした」と語る。(略)
日頃、主張も異なる女性たちが東京連合婦人会を組織し、復興に力を合わせた。らいてうも加わった。会は行政と協力し、ふとん作りなど被災女性の受産活動に動いた。大正デモクラシーを経て、女性の活動範囲は広がり、戦前から婦人参政権運動も戦後ようやく実る。らいてうは晩年も八十五歳で亡くなるまで平和運動に身を尽くす。七〇年安保に反対し、自宅近くをデモ行進した。
当時を知る折井さんは「小柄で、とってももの静かな方。銀髪がおきれいでした」とその思いを代弁する。「原発再稼働を許すらいてうではない。命を守る運動を積極的に進めることが、志を継ぐこと。男性たちにも頑張ってもらいたい」
(東京新聞12月26日『こちら特報部』より抜粋)